31、 放っといてくれる?
ピンポーン
夕方になって玄関のチャイムが鳴り、 もしかしたらたっくんかもと思った私は、 弾かれるように玄関のドアを開けた。
そこには険しい顔をした穂華さんが立っていて、 穂華さんの後ろには、 彼女に腕を掴まれたたっくんが俯いていた。
穂華さんは玄関に入ってくるなり廊下を覗き込んで、 「早苗さんは? 」と聞いてきた。
「お母さんは、 台所で…… 」
私が言い終わらないうちに、 穂華さんが奥のLDKの方に向かって「早苗さん! ちょっと出てきてよ! 話があるんだけど! 」 と大声で母を呼んだ。
エプロンで手を拭きながら母が出てきて、 穂華さんと対峙する。
「上がっていけば? 」
「ううん、 ここでいい」
つい半年ほど前まで親友だったとは思えないほど、 2人のお互いを見る目は冷めていて、 その関係がもう修復不可能なところまで来てしまっているのは誰の目にも明らかだった。
「…… 早苗さん、 どういうつもり? 児相にチクったのはあなたよね? 」
「チクるなんてヤンキーみたいな言い方はおやめなさい。 私はありのままを報告しただけよ。 穂華さん、 これはね、 あなたたち母子のためなのよ」
「はあ? 私たちのため? 私は相談室に呼び出されて、 2人掛かりで虐待してるだろうって責められたのよ! 言い掛かりもいいところだわ! 」
「母さん、 やめなよ…… 早苗さんは俺を助けようとして…… 」
「拓巳! アンタは黙ってなさい! 」
たっくんはビクッと肩をすくめて、 それきり黙り込む。
「穂華さん…… あなた自分で分かってないの? 今のあなたの顔はギスギスしてて、 母性が全く感じられないわ。 今の怒鳴り声だってそう。 あなたがやってることは立派な虐待なのよ」
「いい加減なこと言わないでよ! 私は拓巳に暴力なんて振るってないわよ! 涼ちゃんが拓巳にちょっかいかけてる時にはちゃんと止めてるわ! 」
どんどんヒートアップしていく穂華さんを見て、 母は1つ溜息をつくと、 首を横に振る。
「あのね、 穂華さん、『やめなよ』って声を掛けてるだけじゃ、『止めてる』とは言わないのよ。 それは緩やかな容認だわ。 子供が頭からビールを掛けられて、 どうして平気でいられるの? 絵本にタバコを押し付けられて、 どんなに拓巳くんが傷ついたか…… 」
ちょっと待ってて…… と言って、 母は奥の部屋から例の絵本を持ってきた。
自分が被せた青いブックカバーをビリビリと破り、 表紙を上にして穂華さんに突きつける。
「私はね、 この穴ぼこが空いた男の子の絵を見て、 ゾッとしたわよ。 心臓が止まるかと思ったわ。 こんな恐ろしいことをする人間が子供の近くにいるなんて、 私には耐えられない。 穂華さん、 まだ間に合うわ。 あの男とは別れなさい」
「あなたには関係ないでしょ! そりゃあ涼ちゃんはちょっとイライラして手が出ることもあるけれど、 後でちゃんと優しくしてくれるし、 悪い人じゃないのよ。 新しい仕事だってちゃんと探すって言ってるの。 なのにこんな風に虐待だって言われて邪魔されたら、 仕事探しだって上手くいかないわ」
母親たちの会話を聞きながら、 子供ながらに『ああ、 コレはダメだ』と思った。
散々今まで子供を世話になっておいて、 騒音を撒き散らし、 人に不安や恐怖を与えておいて、 『関係ない』なんてよくも言えたものだ。
ちょっとイライラして手が出る?
後で優しくしてくれる?
仕事さがしの邪魔?
そんなの全部、 自分とあの男の都合じゃないか。
今の言葉のどこに、 母親としての愛情があるの?
苦しんでいる目の前の息子への謝罪は? 苦悩は? 懺悔の気持ちは?
母親でいられないのなら、 たっくんよりもあの男を取るのなら…… たっくんを自由にしてあげて欲しい。
たっくんを…… 私にちょうだい!
それは母も同じ気持ちだったようで、 視線をたっくんに移して、 優しく問いかけた。
「たっくん…… うちの子になる? 」
「はあ? 何言ってるの? 拓巳は私の子よ! 勝手なことを言わないで! 」
母は穂華さんを無視して、 たっくんだけに話し掛ける。
「おばさんね、 たっくんのことが大好きよ。 たっくんが傷つくの、 これ以上見たくないの。あのままあそこにいたら、 きっとまたあの男に酷い目に遭わされるわ。 うちにいらっしゃい」
「早苗さん、 俺は…… 」
バッと顔を上げたたっくんは、 青い瞳を揺らして、 救いを求めるように母を見つめた。
だけど、 穂華さんに手を引っ張られてグイッと後ろに下がると、 そのまま口を塞ぎ、 残りの言葉を引っ込めた。
「拓巳、 あなたお母さんの子よね? お母さんのことが大好きなのよね? だったらさっき児童相談所で言ったことをもう一度言ってちょうだい」
ーー さっき言ったこと?
その時、 たっくんの視線と私の視線が重なったけれど、 それはほんの一瞬だけで、 彼はすぐに目を逸らして、 宙を見つめたまま、 ゆっくりと口を開いた。
「俺は…… お母さんが大好きで、 お母さんとずっと一緒にいたいです。 時々ケンカをするけれど、 それは俺が言うことを聞かなかったから…… 」
そこまで聞いて、 穂華さんは『ほらね』というようにフッと鼻で息を吐き、 たっくんは目を伏せて黙り込んだ。
母は両手で口を押さえて涙ぐみ、 私は彼の留守番電話みたいな感情のない声を聞いて、 呼吸を止めた。
「…… そう言うことなんで、 もううちには構わないで下さいね。 拓巳、 行くよ」
グイッと手を引かれて出て行くたっくんを、 私は無言で追いかけた。
あの男の待つドアの中に入って行く直前に、 たっくんが振り返って言った。
「小夏、 もうここには来るなよ。 俺のことも、 もう放っといてくれる? 」
ドアがバタンと閉められて、 あとには静寂だけが残った。