29、 俺が、 強い?
たっくんが泣いた。
ひとしきり泣いて、 その後で、 母が隣の家から受け取ってきた自分のパジャマに着替えて、 その日に起こったことを話してくれた。
その時、 穂華さんは和室で寝ていて、 たっくんが1人ダイニングテーブルで『雪の女王』を読んでいたら、 どこかからフラリと帰ってきた涼ちゃんが、 後ろから絵本をヒョイと取り上げた。
「フン、 こんなのばっか読んで面白いのかね」
あの、 右の口角だけをニヤッと上げた表情をして、 馬鹿にしたように鼻で笑う彼に、 たっくんが手を伸ばした。
「…… 返してよ」
涼ちゃんは、 たっくんから逃げるように背中を向けて、 絵本の表紙を眺める。
「えっ、 なんだって?『雪の女王』? しょーもなっ」
彼はそう言いながら、 右手に持っていたタバコを躊躇なくジュッと表紙の絵に押し付けた。
焦げくさい匂いと共にグレーの煙が立ち昇る。
「やめろよ! 返せよ! 」
涼ちゃんの手から無理やり絵本を取り戻すと、 指先でパッパッと払って焼け焦げが広がるのを止めて、 胸に抱きしめた。
その時、 騒ぎを聞いて起きてきた穂華さんが、 2人の様子を見て顔をしかめた。
「涼ちゃん、 あんたいい加減にしなさいよ」
「なんだよ、 文句あんの? 」
「文句あるわよ。 また遊びに行ってたの? ヒモならヒモらしく大人しくしてなさいよ」
そう言って穂華さんが冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルタブを起こすと、 涼ちゃんがツカツカと寄っていって、 缶ビールを取り上げ、 壁に投げつけた。
パンッ! という破裂音と共に、 バシャっと飛沫が飛び散り、 落ちた缶から溢れた液体が床を濡らしていく。
「何するのよ! 」
穂華さんが冷蔵庫から2本目のビール缶を取り出して開けると、 涼ちゃんがまたそれを取り上げる。
2人でジッと睨み合った後で、 涼ちゃんがたっくんの方に歩いてきた。
そして無表情のまま、 ビール缶を高く上げ、 たっくんの頭上で傾けた。
ドクドクと流れ出たビールがたっくんの髪を濡らし、 顔を伝い、 肩へと流れ落ちていく。
ポタポタと前髪から落ちる滴りが、 手元の本を濡らしていく。
ゆっくり顔を上げたその青い瞳には、 口角を上げた悪魔が映っていた。
「良かったな。 これで本の煙も消えただろ」
***
「可哀想に…… それで飛び出して1人で公園にいたのね」
たっくんは黙って頷いた。
「頑張ったのね。 怖かったでしょうに…… 」
母が涙を流しながらたっくんを抱きしめて、 たっくんも母の胸に顔を埋め、 声を出して泣いた。
そんな2人を見て、 私もワーワー声を上げて泣いた。
「俺…… アイツの前でなんか…… 絶対に泣きたくなくて……。 俺が泣いたら、 アイツが喜ぶから…… 」
「うん、 いいんだよ、 拓巳くん……。 ここにはアイツはいないから、 我慢せず思いっきり泣きなさい」
その夜はたっくんを真ん中に、 布団を3つ並べて一緒に寝た。
不安とか怖さとか悲しみとか、 いろんな感情がごちゃ混ぜになって、 胸の中がザラついて、 なかなか眠れない。
「小夏…… 起きてる? 」
「…… うん」
「ごめんな……。 俺がお前を守るって言ったのに、 本さえも守れなくてさ…… 弱くて…… ごめんな…… 」
「ううん…… たっくんは強いよ」
「俺が……強い? 」
「うん…… 強いよ。 アイツの前で泣かなかったんでしょ? 凄いよ。 カッコいいよ」
私が手を伸ばしたら、 たっくんが天井を見つめたまま、 その手を握ってきた。
「たっくん…… 今度は私がたっくんを守るよ…… 私が…… 絶対に…… 」
あとは言葉にならなくて、 黙って奥歯を噛み締めた。
隣でたっくんが布団を被る気配があって、 「う〜っ……」とくぐもった声が聞こえてきた。