27、 お前は気付いてなかった?
4月になり、 たっくんと私は小学3年生になった。
2年生で一旦別々になっていたクラスが、 その年で再び一緒になって、 私たちは手を取り合って喜んだ。
3年生は3クラスあって、 私とたっくんは同じ2組。
担任の小野真知子先生は、 私の母親と同じくらいの歳で、 ショートカットの優しい感じのおばさん先生だ。
出来れば担任は女の先生がいいな……と思っていた私は、 大好きなたっくんとも同じクラスになって、 幸先の良いスタートを切ることが出来たと、 そう思っていた。
3年生になって初めての授業参観の日、 クリームイエローのワンピースを着た穂華さんは、 他のお母さんよりも若々しくて綺麗で、 とても目立っていた。
心なしかたっくんも誇らしげで、 後で「穂華さんが一番綺麗だったね」と言ったら、 「うん」と笑顔で頷いた。
だけど、 久々に近くで見た穂華さんは以前にも増して細っそりして、 手足が枝のようになっていた。
頬がこけているせいか、 大きな目が余計にギョロッと大きくなったように見える。
私は以前の穂華さんの方が好きだと思った。
その日は珍しく、 母が穂華さんに声を掛けて、 一緒にファミレスに行くことになった。
穂華さんも断らずに一緒に車に乗ってきたので、 彼女にも話したいことがあったのだろう。
お店では母の提案で、 母親たちと私たちは別々のテーブルに座ることになった。
「お母さんたちと離れて座るの初めてだね」
なんだか大人になったみたいで私は浮かれていたけれど、 たっくんは何故か表情が冴えない。
「たぶん早苗さんは気付いてるんだよ…… 」
「えっ? 」
「お前は気付いてなかった? あいつ、 お母さんを叩くんだ」
「えっ?!…… 」
反射的に母親たちのテーブルに顔を向けると、 母は真剣な表情で必死に穂華さんに語りかけ、 穂華さんは涙ぐみながら首を横に振っている。
その只事ではない雰囲気と、 たっくんの『叩くんだ』の言葉が合致して、 そこに『涼ちゃん』という男の顔が重なる。
あのひょろっとした姿が目の前に現れたようで、 背筋がゾクリとした。
「あいつさ…… 他にも女がいるんだよ。 お母さんの財布からお金を取って遊びに行って、 それでたまに帰ってこなくて…… お母さんが責めると逆に怒りだすんだ」
「なにそれ、 ひどい…… 」
「あいつはクズだ」
たっくんの整った唇から『クズ』というセリフが飛び出すと、 それは余計に凄みを増して響く。
穂華さんが暴力を振るわれていることは知らなかったけれど、 最近隣の部屋から怒鳴り声や壁を叩くような大きな音が聞こえるようになったのは気付いていた。
そして、 私がたっくんの家に行くことを母が禁止したのも、 その辺りに原因があるのだということも分かっていた。
「お母さんが叩かれて、 俺が庇うだろ、 そうするとアイツは俺に手を出そうとして、 今度はお母さんが俺を庇ってさ……。 そうするとアイツは余計に怒って、 本を投げたり壁を叩いたりするんだよ。 最低だ」
唇を噛みしめるたっくんの睫毛が震えていた。
そうか、 久しぶりの両家での外食は、 その事を話し合うためのものだったんだ……。
目の前のチョコレートパフェが、 ドロッと崩れた。
今でも良く考えることがある。
穂華さんは、 どうしてこの時に涼ちゃんと別れなかったんだろう。
なぜあんなに酷い扱いを受けてまで一緒にいたんだろう。
あの時に引き返していれば良かったのに……。
私が穂華さんに泣きながら『アイツと別れて』と懇願したことがある。
そのとき穂華さんは薄く微笑みながら、『小夏ちゃんは本当の恋を知らないから』と言った。
本当の恋って何なんだろう。
たっくんと一緒にいたい、 会いたい、 守りたい、 大切にしたい…… 私がそう思って胸を焦がしたあの時の気持ちは恋ではないと言うのだろうか。
人を裏切り裏切られ、 傷つけて傷つけあって、 それでも離れられないというのが、 そこまで人間を狂わせてしまうのが本当の恋だというのなら、 私はそんなものいらない。
私はそんな恋なんか知らない。