新婚旅行〜サンディエゴの夕陽〜 (2)
翌日は昼近くにゆっくり起きて、周囲の海軍関係の施設を見て回った。
サンディエゴ周辺には、映画『トップガン』の舞台となったミラマー基地、ロマ岬やコロナド島周辺の海軍基地など、数多くの米軍基地がある。
ホテルを出て港沿いを歩くと、海軍の大きな船が行き来するのが見えた。
「あの船にマイクさんが乗ってたのかな」
「どうだろうな」
今となってはそれを知る由も無い。
だけど私とたっくんは、海を渡る船を眺め、本物の航空母艦の内部を博物館にした施設を見学しながら……そしてただ街を歩くだけであっても、そこかしこにマイクさんの姿を当て嵌めてみる。
そしてあちこち指差しては、「マイクさんもこの場所を歩いてたのかな」、「こういう甲板で仕事してたのかな」なんて語り合った。
私たちが思い浮かべるマイクさんは写真の時の若いままで、今の姿は全く想像出来ない。
だけどそれでいい。
私たちは穂華さんの代わりにこの景色を見つめているのだから。
穂華さんの遺体とともに焼かれて灰になった愛しいマイクは、いつまでもあの写真の姿のままなのだ。
「どうする? 午後7時にはまだ少し早いけど」
「今日の予定の場所は全部回れたし、私はもう十分かな」
「そっか……」
今日の本番は夜7時からのディナークルーズ。
大型フェリーに乗って、豪華なディナーとカクテル、そしてライブ・エンターテインメントを楽しむことができる2.5時間の船の旅……という謳い文句のナイトクルーズだ。
今回の旅行が決まった時に真っ先に申し込んでおいた。
なにも船に乗って食事をしたかったわけではない。『夜の船に乗って』、『甲板に出れて』、『自由時間がある』というのが重要だった。
「時間まで座って待ってるか?」
「うん、そうしよ」
2人で海沿いのベンチに腰掛け、自然に手を繋ぐ。ぼんやりと青い海と空を見つめる。
「凄いな……本当にここまで来ちゃったんだもんな」
「うん、凄いね、来ちゃったね」
1人だったら絶対に来なかった……来る気にもなれなかった。
キラキラ光る水面に目を細めながら、そうたっくんは呟く。
「今日さ、2人で海軍ゆかりの場所を歩いたり、博物館を見たりしただろ?」
「うん」
「あちこち指差して、ここでマイクさんもアイスクリームを食べたのかもよ……とか、マイクならこの辺りでナンパしてたに違いない……なんて言って大笑いしてさ」
「ふふっ、ナンパとか言い出したのはたっくんでしょ! あの時たっくんがあまりにも爆笑するものだから、アメリカ人に振り返られちゃったんだからね!」
「俺さ、あの時に、ああ、この子と結婚出来て良かったな……って心底思って、泣きそうになってた」
「……そっか」
ーーそうだったんだ……。
本当ならここで、「どうしてそのポイントで泣く?!」とか、「泣き虫かっ!」って突っ込んでも良かったんだろうけど……私はそれが出来ずに、黙って海に目を向けた。
だって私もあの時は必死だった。
たっくんはマイクのいたであろう場所でいろいろ考えてるのかな、一度も会えなかった父親のいた場所で辛くないのかな? なんて思ったら、なんだか胸がギュッとなって、目蓋の裏が熱くなって……何か言わずにいられなかったから。
ーー私のあからさまな態度なんて、たっくんにはお見通しだったのかな。
そんな私の気持ちを読んだのか、たっくんが握る手に力をこめて、顔を覗き込んできた。
「俺、今回の旅行、普通に楽しんでるよ。確かに母さんの事やマイクの事は頭にあるけど、それとは別に、単純に楽しめてる。……だから小夏も、何も気にしなくていいんだ」
「……うん」
「……とは言っても小夏は優しいから色々考えちゃうんだろうけど……俺は大丈夫だから。今夜の散骨もさ、驚くくらい動揺してないし感傷もない」
「そっか……」
そう、今夜私たちは穂華さんの弔いを……彼女の散骨をするためにここにいる。
ディナークルーズは思っていた以上に豪華だった。
料理は本格的なディナーだったし、中にバーカウンターがあって各種飲み物も自由にオーダー出来る。
ショーが始まって皆の注目がそちらに集まったのを見計らい、私とたっくんは人目を忍ぶようにそっと屋外の展望デッキに出た。
「凄い、夜景が綺麗!」
「ああ。高層ビルが多いから明かりがよく見えるな」
サンディエゴ湾越しに一望するダウンタウンの高層ビル群は、眩い光を放って遠くで輝いている。
カリフォルニアの素晴らしい海岸線を目に、涼しい海の風を浴びながら、頭に浮かぶのは穂華さんの最期の瞬間。
『ああ、 マイク……迎えに来てくれたのね』
『マイク……ずっと……待ってたのよ』
『マイク……愛してる……I love you……』
たっくんが生まれ育ってきた年月は、穂華さんにとってはそのままマイクを待っている年月でもあった。
成長するにつれ、どんどんマイクに似ていくたっくんを、穂華さんはどんな想いで見つめていたんだろう。
ーー穂華さん、最期にマイクに会えて幸せでしたか?
それがたとえ幻でも、たっくんの演技であったとしても……あのときベッドの上で微笑みながら流した雫は、喜びの涙だったに違いない。そうであって欲しい。
じゃないと、最期の『I love you』をマイクとしてしか言わせて貰えなかったたっくんが、あまりにも報われないから……。
「たっくん……たっくんはさっきああ言ってたけど……。それでもやっぱり私はこの場所で、穂華さんのことを考えるよ」
穂華さんのことを想い、そしてたっくんの事を考えるよ。
たっくん、私はたっくんの支えになれているのかな。
たっくんは泣くのを我慢してるんじゃないかな。
私はちゃんと、たっくんが涙を見せられる存在になれてるのかな。
ーー私はたっくんの家族として、何かしてあげられているのかな。
たっくんは涙ぐむ私の肩を抱き、夜の海に目を向けた。黒いコートがはためき、黒髪が後ろに流れる。
「小夏、ありがとうな。でも、湿っぽいのはもう終わりだ。それは今夜までにしよう」
「今夜……」
「うん、そう。今ここで母さんの弔いをしたら、残りの3泊4日は俺たちの時間を楽しまないか?」
「たっくんは、それでいいの?」
「ああ。ここに来れた事で母さんも満足してると思うんだ。俺はこれからだって母さんの事を忘れないし、これからだって思い出す。だけどそれはもう、辛い思い出とか悲しい思い出ばかりじゃないよ」
「……本当に?」
「ああ、本当に」
この辺りでいいかな……そう言ってたっくんは、カバンの中から小さな小瓶を取り出した。
穂華さんの遺言に従って、遺骨は横須賀の海に散骨したけれど、その時にほんの少しだけ小瓶に取り分けておいたのだ。
たっくんがコルクの栓を取り、手摺りから海に向かって右手を伸ばすと、そのまま下に向ける。
小さな瓶は、あっけない程すぐに空っぽになった。
白い粉はサラサラと風に乗って、あっという間に夜の海に消えて行く。
「これで母さんは、最期の瞬間に愛しいマイクにキスされて、死んだ後は愛しいマイクのいた海に眠れた幸せな女だ。そうだろ?」
「……うん」
「そして……俺がそれをした。最後は俺が母さんを……幸せにしてやれたんだ……」
「うん……」
たっくんの声が震え、涙が頬を伝う。
「たっくん……穂華さん、マイクに会えて良かったね」
「……ああ」
横からたっくんにギュッと抱きついたけど、私の小さな身体では、たっくんの身体を丸ごと包み込めない。
それでも私は力をこめて、必死で腕を伸ばしてたっくんにしがみついた。
「穂華さん、きっと喜んでるよね。たっくんにありがとうって言ってるよね」
「……ん……そうかな」
「そうだよ。それでね、たっくんの事は私が……私が絶対に……絶対に……幸せにする……」
言っているそばから声が震えだす。私の涙がたっくんのコートにシミを作る。上から聞こえるたっくんの声も途切れ途切れだ。
「は……何言ってんの……俺、もう小夏に……幸せにしてもらってるし」
「駄目だよ! もっと……もっと幸せにするんだから! これからもっと……私が……」
必死でしがみつく私の腕をそっと離して、代わりにたっくんが私を抱きしめる。
痛いほど強く締め付けられて息が苦しい。だけど、今はそれさえも愛しい。
「分かったよ。……2人で幸せになろうな、奥さん」
「おっ、奥さん?!」
「ハハッ、奥さんだろ?」
2人で泣き笑いの顔で見つめ合って……それから夜の闇に紛れてキスをした。
船は黒い海を割ってどんどん進み、穂華さんの眠る場所から遠のいて行く。
『死んだ人間にお金をかけるなんて馬鹿らしい。私は神も仏も信じちゃいないし、お経もお墓もいらない。そうね……遺骨は海にでも流しちゃってよ。後には何も残らなくていいの、な〜んにも』
何処かから穂華さんの声が聞こえたような気がしたけれど……それはすぐに波の音に紛れて消えていった。