76、これで本当に良かったのかな?
『はい、和倉です』
「お久し振りです……拓巳です」
たっくんの声を聞いた瞬間、先方がハッと息を呑むのが分かった。スマホのスピーカーからは物音ひとつ漏れて来ず、沈黙が訪れた。
壁際にある簡易ベッドに並んで腰掛けながら、2人してスマホを見つめる。
「ずっと連絡もせずに……申し訳ありませんでした」
少し掠れたようなたっくんの声から、緊張しているのが伝わってくる。
たっくんは、十蔵さんに穂華さんが見付かったことを伝えずに、ただ『祖母の看病に行く』とだけ伝え、高校を辞め、街を出た。
もう家族でも息子でもないたっくんのために、『せめて成人するまでは』と今も生活費を振り込み続けている十蔵さんに、真実を告げるべきかどうか、ずっと悩み続けていたと言う。
「母さんはきっと、今のすっかり変わり果てた姿を見られたくない筈なんだ」
十蔵さんは美しく可憐な穂華さんを見初めて結婚した。穂華さんもそれを分かっているから、美しい姿の記憶だけを残して彼の前から消えたんだ。
「だけど俺、アパートで1人暮らしをさせてもらう時に、十蔵さんに約束したんだ。『母さんから連絡があったらすぐに知らせる』って」
その約束がずっと頭の片隅に引っ掛かって、罪悪感として残っている。
穂華さんと十蔵さんの間で板挟みになっているたっくんの気持ちは分かるけれど……
「でも、私が十蔵さんの立場だったら、やっぱり教えて欲しいかな」
スッと口から出てきた。
たっくんは、私を巻き込むまいとして、黙って姿を消した。
だけど私は真実を知りたいと思ったし、大変でも巻き込まれることを選んだ。
「何も知らずに置いて行かれるのは嫌だから……たとえそれがどんなに辛い事実であっても、知っておきたいと思う」
私のその言葉を聞くと、たっくんは黙って頷き、スマホのアドレス帳をタップしたのだった。
『拓巳くん……まさか、穂華さんが見付かったのかい? 彼女は元気なのか?』
「いや、母さんは……」
どう伝えようかとたっくんが言い淀んでいると、十蔵さんが思わぬことを口にした。
『実はね……今、結婚を前提に付き合っている女性がいるんだよ』
「えっ……」
『もう結婚は懲り懲りだと思っていたのにね、愚かな男だと笑うかい? だけど、今年の夏に、ずっとそのままだった穂華さんとの離婚届を提出してね……今度のクリスマスに籍を入れようと思っている』
「……そうだったんですか」
『ところで、お祖母さんの具合はどうなんだい?君は元気で暮らしているのかい?』
「……はい、祖母はお陰様で、無理は出来ないものの普通に日常生活は送れています。今日電話をしたのは……」
そこでたっくんは1つ深呼吸してから、思い切ったように言葉を続けた。
「俺、今年の春に定時制高校を卒業して、美容院で働きながら、専門学校で学んでます。俺はもう大丈夫なんで……仕送りももう結構です。それを伝えたくて……」
『そうだったのか、それはおめでとう。僕の家では辛い思いをさせてしまったから、君の将来を案じていたんだ。本当に良かった。これで穂華さんが見付かれば言うこと無いんだろうけど……』
「……いえ、いいんです。俺は今、幸せなんで。借りていたお金も働いて少しずつでも返していきますから……」
『いや、それは君にあげたお金だ。どうかそのまま受け取っておいて欲しい。君たちを幸せにしてあげられなかったお詫び……と言うのも変だけど、君の将来に役立ててくれれば本望だ。そして、もうこれからは……』
「はい、分かっています。十蔵さんに連絡するのは今日が最後です。今まで本当にお世話になりました。十蔵さんも彼女とお幸せに。さようなら」
『うん、君も元気で。さようなら』
あっけない幕切れだった。
あんなにたっくんが悩んでいたのが嘘みたいに、あっさりと和倉との関係が終わった。
「小夏……俺、言えなかったわ」
「うん……十蔵さんのためを思って黙ってたんでしょ?それで良かったんだよ」
十蔵さんはもう新しい恋を始めたんだ。たっくんや穂華さんとは別れて新しい道を進もうとしている人を、わざわざ過去に引き戻す必要は無い。
「穂華さんの希望通り、十蔵さんの中の穂華さんは、若くて綺麗なままでいられるんだね」
「うん……」
「たっくんはやっぱり優しいね」
「俺が? 俺は……臆病なだけだよ。今だって、これで良かったのかって悩んでる。これで本当に良かったのかな? 十蔵さんを騙したままで……」
私は横からコテンとたっくんの肩にもたれ掛かって、軽くイビキをかいている穂華さんを見つめる。
「良かったんだよ……。これでたっくんは正真正銘、元の月島拓巳に戻ったんでしょ? 穂華さんを『穂華さん』なんて呼ばずに『お母さん』って呼んで……これからは普通の親子としての時間を過ごすの。それでいいじゃない」
「普通の親子……か」
「うん。母親の看病をする息子と、その横で一緒に付き添う彼女。普通だよ」
「うん……そうだな」
気付くともう外は真っ暗で、窓には白く霜がついていた。