68、2人で駆け落ちしちゃうか?
帰りはたっくんが『危ないから』と新幹線の駅まで一緒に来てくれた。
夕方には発つ予定だったのをズルズルと引き延ばした私は、結局消灯時間まで施設に居続けてしまったのだ。
荷物を取りに一旦たっくんのアパートに寄ると、そこからタクシーで大きな駅まで行き、電車で新横浜駅に向かう。
ボックス席で肩を寄せ合って座っていると、駅を一つ通過するたびに、たっくんとの別れのカウントダウンをしているようで胸がギュッと苦しくなる。
私たちは徐々に言葉少なになっていく。
「穂華さんの髪……大成功だったね」
「うん、やって良かった」
「喜んでたね」
「うん、喜んでたな」
ヘアカラー 後に鏡を見たときの穂華さんの表情が忘れられない。
『まあ素敵!拓巳くん、素敵だわ!ありがとう!』
鏡に向かって右を向き左を向き、頬を紅潮させ、パアッと華やかな笑顔を浮かべてたっくんを振り返っていた。
今は皮膚に張りが無くなって顔も浮腫んでいるけれど、今日のあの笑顔は、久し振りに昔の穂華さんを思い出させるものだった。
モンシロチョウのようにヒラヒラと軽やかで、少女のように可憐なあの女を、私は長らく苦手に思っていた。
だけどそんな私のことも、あの雪の日の恐ろしい出来事も、今では全て彼女の中から消え失せてしまっている。
そう思うと、私の中の彼女へのわだかまりも雪解け水のように流れて消えて、彼女がただの寂しくて不器用な女性に思えてくるのだ。
「小夏、大丈夫?電車に酔った?」
今日の出来事を振り返っているうちに、思考がトリップしていたらしい。
私はそんなに変な表情になっていたのだろうか、たっくんが酷く心配そうな表情で覗き込んでいた。
「……今度私もたっくんにヘアカラー をやってもらおうかな……」
「小夏は今のままでいいよ。せっかくツヤツヤの黒髪なんだから。でも……」
「でも?」
「へアカットならやってみたいかな。そしたらもう小夏は美容院に行かなくていいだろ? 他のヤツに髪を触らせなくて済む」
「ふふっ……すごい独占欲」
「うん……俺、小夏に関してはめちゃくちゃ嫉妬深いから。なあ、本当に今度、俺に髪を切らせてくんない? 頑張って覚えるから」
「いいよ、今度ね」
「うん、今度……」
だけどその今度は、きっとしばらくは訪れなくって……。
「帰りたくないな……」
「うん、離したくないな……」
「このまま残っちゃおうかな……」
「2人で駆け落ちしちゃうか?」
だけど私たちは、今はまだ一緒にはいられないんだ。
ーー早く大人になりたいな……。
黒い窓に映った自分を見たら今にも泣きそうな表情をしていたから、慌てて深呼吸して目の縁ギリギリで涙を堪えた。
春とは言え、午後9時過ぎの空気はまだ冬の名残りを孕んでいる。
夜になって冷え込んできた新幹線のホームに立ちながら、蒼黒の空に瞬く星を並んで見上げる。
「この空は小夏が住む街まで続いてるんだな……離れていても俺たちは同じ月を見てるんだ……な〜んて、クサ過ぎるだろ、俺」
たっくんが首の後ろをさすりながら、『マズいな、別れの時間が近付いてきたら平常心じゃいられないわ」と照れ笑いを浮かべている。
「もっと言って」
「えっ?」
「クサいセリフ、もっと言ってよ。後で思い出したら恥ずかしくて悶えちゃうくらいのヤツ」
たっくんは真顔になってしばらく考えてから、手にしていたボストンバッグを足元に置き、私の両腕を掴んで真っ直ぐに見つめて来た。
「……君は僕のシンデレラ」
「ふふっ……ベタだね」
「君の瞳に乾杯」
「キャハハ!ウケる!」
「お前が作った味噌汁を毎日飲みたい」
「……練習しておく」
「……俺とお前は運命の赤い糸で結ばれている」
「……うん」
その時、駅のアナウンスが流れて21時9分発の『のぞみ』が近付いて来た。
「お前は俺の太陽だ」
「……うん」
「いつだって俺の心はお前のモノだ。どんなに遠く離れていても……気持ちは繋がってる」
「……うん」
「絶対に浮気すんなよ。司波とかに誘われても断れよ」
「たっくんこそ……可愛いボランティアの子とかが来ても浮気しちゃダメだからね」
「ゼッテーしねえよ!」
「受験勉強、頑張れよ。体調管理しっかりしろよ。風邪ひくなよ」
「うん、たっくんも身体に気をつけて」
駅に新幹線が滑り込んで来た。
そちらをチラリと眺めてから、たっくんは私をジッと見つめる。
「小夏……俺、決めた。高校に行くよ」
「うん……えっ?」
ーーええっ?!
今度は私がたっくんの腕をグッと掴んで見上げた。
「えっ、たっくん、どういう事?!」
「もう乗って。……俺も決意したのはたった今だから……詳しくは後でメールする」
後ろ髪を引かれる想いでボストンバッグを手にして新幹線に足を向けた。
「あっ、待った」
「えっ?」
グイッと肘を掴まれて、振り向いた瞬間に柔らかい唇が押し付けられる。
「ちょ、ちょっと!」
「ハハッ、後で思い出して身悶えしてろよ」
「もうっ!」
「ほら、早く乗れよ」
デッキに片足を掛けたところで、
「小夏……大好きだ。愛してる」
背中にこれ以上無いくらい甘い声色の言葉が降ってきて、もう耐えられなくなった。
「うん……たっくん……愛してる……」
シュッと気の抜けたような音と共にドアが閉まったその瞬間、私とたっくんの遠距離恋愛が始まった。
デッキの向こう側でたっくんが手を振っている。
彼の顔がグニャッと歪んで泣き出したように見えたけれど、すぐに涙で滲んでしまったから、確かめることは出来なかった。
ぼやけた視界のまま必死で手を振り返したけれど、それもあっという間に遠ざかって小さくなっていった。