67、一緒に選んでくんない?
『母さんのヘアカラー をしようと思ってるんだ』
たっくんからそう聞かされたのは今朝のベッドの上。
そろそろシャワーを浴びて出発の準備をしなくてはと思っていた時だった。
昔横浜に住んでいた頃の穂華さんはライトブラウンの軽やかな髪色をしていた。
ふんわりした雰囲気の彼女にそれはとても似合っていて、まるで人形みたいだと思ったのを覚えている。
『今は黒髪に戻っちゃった上にずいぶん白髪が増えて老け込んだ印象になってるだろ? 普通に白髪染めをするよりは明るい色にしちゃった方がいいかと思ってさ。一緒に選んでくんない?』
『たっくんが自分でやるの?』
『そう。毎週月曜日に近所の美容師さんが施設に出張して来るんだけど、そういうのって割高だし、自分でやっちゃった方が手っ取り早いだろ?』
確かにたっくんなら器用だし、初挑戦でもどうにかなりそうな気がする。
私たちは施設に来る前に24時間営業のドラッグストアに寄って、必要物品一式を買い求めてきた。
問題は、最近は入浴どころか洗顔も嫌がるという穂華さんが許可するかどうかだったけれど、
『髪の毛を染めて綺麗になろうよ』と言うたっくんの言葉にあっけないくらい素直に頷いたのは、美しくありたいという乙女心を今も失っていないという事なのかも知れない。
「おっ、拓巳くん、今日はガールフレンドと一緒かい?」
「あらあら拓巳くん、今日は『両手に花』じゃないの」
よちよち歩きの穂華さんを連れて館内を移動していると、たっくんはあちこちから声を掛けられて、そのたびに立ち止まっては世間話をしていた。
この施設は、主に老後をのんびり過ごしたいリタイア組や、自宅での自立生活が困難になった高齢者が多く利用している。
入居費用の支払い能力さえあれば若年性の認知症患者であっても入居可能なため、特別養護老人ホームなどの公的施設と比べると比較的若い年齢の入居者もちらほら見受けられる。
それでも穂華さんのような若さで入居しているのは稀で、そこに青い目の見目麗しい青年が毎日のように訪れているのだから目立って当然だろう。2人は施設の中でも注目の存在のようだった。
「それじゃあ川口さん、洗髪台をお借りします」
午後のレクリエーションを一通り終わった午後2時過ぎ、たっくんと私は穂華さんを車椅子に乗せて4階の大浴場に向かった。
そこは入居者が時間を決めて男女交代で入浴出来るようになっているけれど、この時間は誰もいなくてガランとしていた。
広い脱衣所の隅には介助椅子やシャワー用車椅子などが置いてある。
たっくんはそこにある洗髪台を脱衣所の真ん中に引っ張り出してきて、その前に洗髪用のリクライニングチェアーを置いた。
「それじゃ穂華さん、ヘアカラーをするよ」
私たちが選んだのは泡タイプのヘアカラーで、色はミルクティブラウン。昔の穂華さんの髪色に一番近い気がしたから。
やり方は箱の中の説明書と動画サイトで予習済みだ。
たっくんが使い捨ての手袋を装着して、ボトル容器の中で液を混ぜる。出来た泡を手に取って、穂華さんの髪に満遍なく揉み込んでいく。
「やっぱりたっくんは手際がいいね。本当の美容師さんみたい。カッコいいからカリスマ美容師で売り出せるんじゃない?」
「マジか。実を言うと俺も結構楽しくなってる。基本的にこういうのが好きなんだろうな」
話しながらたっくんは穂華さんの頭をホイップクリームで覆われたみたいにモコモコにして、てっぺんで髪をまとめてクリップで留めた。ここから30分ほど放置だ。
「穂華さん、退屈だろう?今から俺が絵本を読むからね」
病気の穂華さんが長時間ジッとしているのはなかなか難しい。どうすれば良いかと考えた結果、絵本を読もうということになった。
横浜にいた時もたっくんが良く絵本を読んでいたから、もしかしたら何か思い出すきっかけになるかも知れないという期待もあった。
「雪の女王。お日さまが明るく輝き……」
たっくんが穂華さんの隣に丸椅子を置いて座ると、大きな声で、朗々と絵本を読み上げる。
私はたっくんの後ろに立って一緒に文字を追いながら、2人で顔をくっつけて絵本を読んでいたあの頃を思い出して懐かしくなった。
穂華さんはどうかと顔を見ると、リクライニングした洗髪チェアーの上で天井を向いたまま目を瞑っている。
ジッとしてもらうための絵本だったから目的は果たせているのだろうけど、たっくんの朗読を聞いているのか聞いていないのか分からないのが残念だ。
話を最後まで読み終えたたっくんが絵本を閉じて、「寝てるのかな?」そう言って顔を覗き込んだ時、
「もう一回」
穂花さんが目を閉じたままおもむろに口を開いた。
「えっ……」
「そのお話、大好きなの。もう一回読んで」
たっくんが驚いた表情で私を振り向いた。目が大きく見開かれている。きっと私も同じような表情をしているに違いない。
私が両手で口を覆ったままコクコクと頷くと、たっくんも無言でゆっくり頷いて、丸椅子に座り直した。
「穂華さん……もう一度読むよ」
「うん」
「雪の女王…… ———美しい薔薇が咲いていました。おしまい」
「もう一回」
絵本を持つ手は震え、声も途切れ途切れだったけれど……たっくんはそれから何度も目元を拭いながら、6回も同じ話を朗読し続けた。
たまたま穂華さんもそのお話が好きだっただけかも知れない。たまたま興味を持ってくれただけかも知れない。
だけど私たちには、何度も繰り返される『もう一回』が、とてもとても意味のあることのように思えた。