60、母の本音 (2)
『普通』って、『普通の子』って何なんだろう。
親が育児放棄も失踪もしていなければ、それで『普通』?
母親が恋することを諦めて子供だけを見つめていれば『普通の家庭』?
だったら母子家庭や父子家庭はどうなんだ。
子供を育てるために毎日必死で働いて、休日だって、娘が病気の時でさえ殆ど構ってあげられない私は……『普通の母親』では無いんだろうか?
そしてこんな私に育てられた小夏は、『普通の子』じゃないと言うのか?あの子は幸せではないのか?
たっくんを否定する事は、自分自身や自分の生き方までも否定する事になるような気がして……だから必死で『良い人』であろうとしてきたのだと、母はそう言った。
「だからね、 あの事件があって、 穂華さんがアパートから逃げるって言い出した時、 心配すると同時にすごくホッとしたの。『ああ、 コレでようやく隣人から解放される』って」
「嘘っ…… だってお母さんはお金まで渡して2人を手伝って……」
「それはただの私の自己満足。逃げる時に手伝いをしたのも、 穂華さんや拓巳くんにお金を渡したのも、 ホッとしている自分への罪悪感があったからで……単純に『助けたい』って親切心からだけでは無かったのよ」
『酷いでしょ?』と母さんが自嘲気味に唇の端を上げる。新幹線がトンネルに入る瞬間に、潤んだ母の瞳がキラリと光るのが見えた。
「こんなお母さんでごめんね…… お母さん、 自分がこんなに弱くて自分勝手な大人だなんて小夏に知られたくなくて…… 憎まれたくなくて…… ずっと言えなかったの。 だから穂華さんや拓巳くんだけを悪者にして…… ごめんなさいね」
ーー違う!……違うよ、お母さん。
どう言えば自分の気持ちがちゃんと届くだろう……。
今の私が母に伝えたい言葉を頭の中でめまぐるしく考えて、必死で選び抜いた。
「……ううん、 やっぱりお母さんは凄いよ」
「小夏……」
「お母さんは心の中で葛藤しながらも、 それでもいつだってたっくんに救いの手を差し伸べてくれたじゃない」
私もたっくんも、ズルい大人を沢山知っている。その人達は同情するような顔で近付いてくるくせに、自分に火の粉が及びそうになるとサッと顔を背けて逃げるのだ。
彼らはその事を疑問にも思わないし、悩んだりもしない。『可哀想だ』と誰かに笑顔で語り、そのことさえも一晩で忘れてしまうんだろう。
所詮他人事なのだから。
「お母さんはたっくんのために沢山泣いて怒って動いてくれた。迷ったり悩んだりしながらも寄り添ってくれた。お母さんはいつだって立派な大人で……人として正しい道を示してくれたよ。私はそんなお母さんを心から尊敬してる」
初めて会ったあの日から、たっくんを家に招き入れ、目の前に温かい料理を並べ、本当の息子みたいに接して来た。クリスマスには絵本を贈り、最後の夜にはサンダルまで買い与えて…… それは愛が無ければ出来ない行為だ。
「ありがとう、お母さん」
ーー伝わってるかな。
ちゃんと伝わったかな。私はお母さんが大好きだよ、尊敬してるよ。お母さんの娘で良かったって心から思ってるよ。
「小夏……私はね、ずっと怖かったの。 いつか拓巳くんがあなたを連れて行ってしまうんじゃないかって。 小夏がどこかに行ってしまうんじゃないかって」
「…… お母さん、 私はもう小さな子供じゃないよ。 こうやって自分の足でどこにでも旅立って行けるし、逆にどんなに遠くに行ったって、 自分の意志で戻って来る事も出来るんだよ」
「小夏……」
「私はいつでも何処にいても、お母さんの娘だよ。たとえどんな遠くに行ったとしても、お母さんに会いに戻ってくるよ。お母さんがお祖母ちゃんにそうしたように」
「ふふっ……これじゃまるで本当にお嫁に行っちゃうみたいだわね」
「おっ、お嫁さん?!それは早過ぎる!」
頬をポッと赤らめたら、母がクスッと笑う。
「やだわ、当たり前でしょ。学生はまだまだ勉強に励みなさい。大学に行ってバイトして……自分のお金で拓巳くんに会いに行くのよ」
「……いいの?たっくんに会いに行っても」
ーーだって、お母さんは嫌なんじゃないの?
「もう降参!ここまでされたら認めるしかないじゃない。それにお母さんね、あなた達の絆の深さにちょっと感動してるのよ。運命の出会いって本当にあるんだな……って」
「えっ、そんなの、恋をする相手はみんな運命の人なんじゃないの?お父さんとお母さんだって運命の出会いがあったから恋をして結婚したんでしょ?」
「……そう言われれば、そうなのかしら」
お父さんとの出会いでも思い出しているのか、ちょっと上目遣いになって考えている。
「そうだよ。お母さんの運命の相手がお父さんだったように、私の運命の相手がたっくんだったって事でしょ?」
「……そうね。私がお父さんと出会って小夏を授かって、小夏が拓巳くんと出会って……こうやって人の絆が続いて行くのよね」
この時ふと、母親にある事を聞いてみようと思った。それはなんとなく口にしてはいけないような気がして、今まで避けていた話題だけれど……死んだ父親の事だ。
「ねえ、お母さん」
「ん?なあに?」
「お母さんはお父さんと結婚したことを後悔してない? お母さんが今もしも過去に戻れるとしたら……お父さんが事故で死んじゃうって分かっていても、それでもやっぱりお父さんを選ぶ?」
「う〜ん、そうね……」
『それでもやっぱりお父さんがいいわ』と、母は照れ笑いを浮かべながら答えた。
「過去に戻れるのなら、お父さんが事故に遭わないように全力で動くわね。結婚してすぐに禁酒させて、飲み会も絶対に参加させないで、夜道は歩かせない。門限は9時ね」
「ふふっ、鬼嫁だ」
「そう。鬼嫁になってギチギチに縛って……それでもあの事故が起こってしまうとしても……やっぱりお父さんと結婚して、もう一度小夏と3人で家族になりたい」
「……そっか」
座席の肘掛けの上で、どちらともなく自然に手を握り合う。
久し振りに触れた母の手は、記憶にあったそれよりも骨張って薄くなっていて、ちょっと切ない気持ちになった。
ポカポカと陽だまりが射すあの丘の上で、穂華さんの細くて白い手を引きながら、たっくんもきっと同じように感じたのだろう……と思った。