54、母と息子、兄と妹 side拓巳
「私、この人がいいわ。この人を私の担当にしてちょうだい」
川口さんの言っていた通りだった。母さんは俺を見ても息子の月島拓巳だと認識出来ていない。
それどころか……
母さんは俺を施設の職員だと思い込んでいて、『死んだ夫に似ている』、『私のタイプだ』と上機嫌で川口さんに担当変更をねだり出した。
頬を染めて俺の腕にしがみ付いている姿を見て、川口さんも伯父も、憐みに満ちた目で俺を見つめている。
ーーやめてくれ……同情なんて、まっぴらだ。
そんな目で見られたら余計に俺が惨めじゃないか。
いいんだ、これでせいせいした。
これでもう母さんの中に俺がいないことがハッキリしたんだ。
これからは自分に母親がいないものだと思って生きていくだけだ。3年も前にそう思っていたはずなのに、何を今さら傷付いて……。
「そう言えば、拓巳は何処に行ったのかしら?」
ーーえっ?!
急に自分の名前を出されて、肩がビクッと跳ねた。
「母さん?」
ーー俺のことを覚えて……
だけどそう思ったのはほんの一瞬。
「あら、母さんだなんて嫌だわ。私はあなたみたいな大きな息子がいるほど年寄りじゃないわよ。でも、あなたは私の息子にとても良く似ているわ。私の拓巳もね、とっても綺麗なブルーアイズなの」
母さんは部屋をキョロキョロと見廻すと、急に狼狽だして、川口さんに詰め寄っていく。
「拓巳がいないわ!……ちょっと、うちの拓巳を何処にやったの?!……拓巳?!」
こうなるのは今回が初めてでは無いんだろう。どうすればいいのか分からず茫然としている俺や伯父さんと違い、川口さんはとても落ち着いていた。
「月島さん……穂華さん、心配しなくても大丈夫ですよ。拓巳君はお祖母様のところに遊びに行ってるだけですから」
慣れた様子で母の背中をさすり、ゆっくりと話し掛けると、母はハッとして、「ああ、そう。そうだったわね。拓巳は遊びに行ってるんだったわ」
うんうんと頷いて、顔を綻ばせた。
「ねえ、あなた、名前は?」
さっきまで息子を探していた事なんて無かったみたいに俺に笑顔を向けると、もう一度腕にしがみついて見上げてくる。
「拓巳……和倉拓巳です」
咄嗟に和倉の名前を出したのは、母を混乱させるのを恐れたから。
うっかり『月島拓巳』と名乗って、母がまたさっきみたいなパニック状態になる姿を見たくはなかった。
「拓巳?!……名前まで息子と同じだわ。これって運命だと思わない?私、ビビビって来ちゃった!」
***
施設から祖母のいる病院へと向かう車内では、伯父が時折「ううっ……」と嗚咽を漏らしながら、男泣きに泣いていた。
あまりにもダラダラと涙と鼻水を垂らしているものだから、前がちゃんと見えているのだろうかと運転が心配になる程だった。
ーーああ、やっぱり兄妹なんだ……。
この人が悲しくないだなんて、俺はどうしてそんな風に思えたんだろう。
憎しみや恥ずかしいという気持ちは勿論あるだろう。だけどそれだけでは無い、悲しみや苦しみの感情だってちゃんとあるに決まってるじゃないか。
俺と母さんに肉親の情があるように、伯父と母さんにだって血の繋がりと沢山の思い出があるはずなんだ。
幼い頃には、庭の黒松に落ちた雷に仰天して一緒に身震いしたり、その後で玄関に置かれた切り株の靴脱ぎ椅子に腰掛けてはしゃいだりもしたんじゃないだろうか。
俺と幸夫がお喋りしながら歩いたあの道を、兄妹で手を繋いで歩き、近くの海岸では砂遊びをしたり泳いだりもしただろう。
そんな思い出を少しずつ失っていく妹を……妹の記憶の中からいずれ消えてしまうであろう自分や家族の存在を……悲しいと、悔しいと思わないはずは無いんだ……。
俺も泣きたかったけれど、伯父さんがあまりにも泣いてるから、涙を流すタイミングを失ってしまった。
窓の外に目をやると、太陽の光が穏やかな海のさざな波に反射して、キラキラと美しい光を放っている。
じっと眺めていたら喉の奥から熱いものが込み上げてきて、徐々に瞳を潤ませていった。
瞳が水の幕で覆われると、視界が滲んで景色が見えなくなって、キラキラチカチカした眩しい光だけがずっと煌めいていた。