53、母との再会 side拓巳
前日までは節約してバスで行こうと思っていたけれど、当日になって気が変わった。
横須賀には少しでも早く着きたい。叔父にお金を出してもらう気は無いから、自分のお金で新幹線の切符を買った。
肩に背負ったリュックには、通帳と印鑑と、念のために入れて来た2泊分の着替え。
場合によっては3泊くらいになるかも知れない。
途中で富士山の前を通過したけれど、生憎の曇りで良く見えなかった。
いつか小夏と並んで見られたらいいな……と思ったら、その一瞬だけは緊張を解くことができた。
横須賀中央駅に着いたのはまだ朝の9時前で、以前夜行バスで一晩かけて横浜まで行った時との違いに驚いた。『時は金なり』と言うけれど、お金が無い人間は、時間さえも平等に与えてはもらえないのだと実感する。
駅前でタクシーを拾って月島家の住所を告げると、驚いたことに運転手はその街の出身で、月島家の場所も知っていると言う。
「ああ、月島のお屋敷と言えば、地元のもんなら大抵知ってるよ。月島建設は地元では大手でね、亡くなった親父さんの頃よりは多少勢いが無くなったものの、今も地元の公共事業は大抵あそこが手掛けてるんじゃないかな」
「そうなんですか……」
伯父の事業には大して興味がなかったから適当に相槌だけを打っていたら、運転手も俺があまり乗り気じゃないと気付いたのだろう。
それきり黙り込んで、車内にはラジオから流れる音楽だけが聴こえるようになった。
タクシーは海沿いの道を順調に進む。この道はなんとなく見覚えがある。お祖母ちゃんや母さんとタクシーで買い物に行く度に通ったから。
懐かしいな……なんて思いながら、キラキラと輝く海を眺めていた。
7年ぶりの月島家は相変わらず大きく立派で、そして威圧感があった。黒光りしている瓦屋根を見上げてから、玄関のドアホンを押す。
応答が無いと思っていたら、すぐに奥からドタドタと足音が近づいて来て、伯父さんが顔を出した。右手に車の鍵を持っている。
記憶の中の伯父よりも恰幅が良くなって、白髪が増えていた。
向こうも俺の7年分の成長を感じているのだろう。しばし黙って見上げてきたけれど、青い目を見れば俺が拓巳だと言うのは一目瞭然だ。『拓巳か』と確認されることもなく、伯父はすぐに用件に入った。
「さあ、行くぞ」
「えっ? どこに……」
「どこって、お前の母親がいる所だ」
家に上がることもなく、そのまま白いセダンの助手席に座らされる。心の準備が出来ていなくて面食らったけれど、どうせ俺に選択肢は無いんだろう。黙って従い、リュックを足元に置いてシートベルトを締めた。
「行けば分かることだから、先に言っておくんだが……」
そう前置きした上で伯父が語った母の病状は、思っていたよりも深刻なものだった。
12月23日に祖母から母のことを聞かされた伯父夫妻が慌てて施設に駆け付けると、母は最初、2人が誰だか認識出来なかった。
だが、話し掛けられているうちに2人の中に昔の面影を見つけたのだろう。認識した途端に激しく拒絶反応を示したのだという。
「『何しに来た』だの『出て行け』だの怒鳴られて、枕を投げつけられてね。あまりの興奮状態に、介護職員さんに『今日のところはお帰り下さい』と諭された。……それきり行ってない」
伯父はハンドルを握って前方を見つめたまま苦笑してみせた。
ーーこの伯父は今の母さんのことをどう思っているんだろう……。
『月島家の恥』とでも言うべき存在である母。
未婚で青い目の息子を生み、不倫して家を出て、数年ぶりに戻っても尚、息子の担任と関係を持った挙句、後ろ足で砂をかけるようにして出て行った不肖の妹。
そして今度は、よりによって認知症だなんて病気になって、こっそり地元に戻って来ていた……。
ーー憎んでいるのか、恥ずかしいと思っているのか……。
そっと伯父の横顔を窺ってみたけれど、固く結んだ口元からは、感情がよく読み取れなかった。
伯父に連れて行かれたのは、海を見下ろせる丘の上にある介護施設で、ゆるやかな坂を上がっていくと、その先にいきなり緑の敷地と白い建物が現れた。
門からそのままゆっくりとスロープを進み、建物の横にある広い駐車場に車を停めて、正面玄関から中に入る。
玄関に入ってすぐ左手の受付で伯父が「月島穂華の身内のものですが……」と名乗ると、事務所の奥から年配の女性が出て来て、隣の応接室に通された。
奥の2人掛けソファーに伯父と並んで座ると、ガラステーブルを挟んで反対側のカウチに女性が座り、伯父に向かって「先日はどうも」と軽く会釈してから、俺の方を見て、「こちらは?」と聞いて来た。
「はい、コイツは穂華の1人息子の拓巳です」
伯父にそう紹介されてペコリと頭を下げると、女性は「月島さんの担当ケアワーカーの川口です」と名乗り、ちょっと戸惑ったような表情で伯父に視線を移した。
「拓巳は……事情があって、アイツとは離れて住んでいます。母親の病気のことも、昨日知ったばかりで……」
川口さんは複雑な家庭の事情があると悟ったのだろう。うんうんと2度ほど頷いてから俺の方を見ると、「拓巳くん……あなたのお母様の記憶はかなり失われています。残念だけど、あなたを見ても、息子さんだと認識出来ないかも知れない。それだけは覚悟しておいて下さいね」
そう申し訳なさそうに告げられた。
「母が俺のことを認識出来なかった場合……俺は名乗らない方がいいんでしょうか?どういう対応が正しいんですか?」
今までアルツハイマーの人に会った事がないからどんな対応が正しいのかが分からない。してはいけない事、言ってはいけない事を事前に知っておく必要があると思った。
「そうですね……まず、穂華さんが言うことを否定せず、そのまま受け入れて下さい」
「そのまま……ですか」
「そうです。認知症の患者さんは、記憶が失われても、羞恥心やプライドまでは失っていません。自分の言った事を否定されれば傷付くし怒りもします。ですから、話している内容がデタラメであっても、『それは違うよ』なんて言わず、受容してあげて欲しいんです」
「……はい」
「アルツハイマーの7段階のうち、穂華さんのレベルは5から6の間……中等度から重度に差し掛かっています。同じことを繰り返し言ってきたり、会話の中に嘘や妄想も含まれてきますが、辛抱強くお付き合いしてあげて下さい」
「はい……分かりました」
分かりましたと答えたものの、本音を言えばかなり戸惑っていた。理屈では分かっていても、実際母親を目の前にした時に何をどう話せばいいのか見当もつかなかった。
第一、本当に俺のことが分からなくなっているのだとしたら、俺は何のためにここまで来たんだろう。もしかしたら、俺なんて必要ないんじゃないか?
ーーそれならそれで構わない。その時は母親のことなんて忘れて、とっとと名古屋に帰ってしまおう。俺には小夏がいればいい。
そんな事を考えながら、川口さんと伯父について、3階へと向かった。
エレベーターに乗った辺りから徐々に脈拍が上がり始め、『月島穂華』というプレートが掛かった301号室の前まで来ると、心臓が痛いくらいに早鐘を打っていた。
ドアを開けて入ったそこには……3年3ヶ月ぶりに見る母親の姿。
「母さん……」
俺の声に振り向いたその女性は、
「あら、あなた…… 私の死んだ夫にソックリだわ」
ニッコリと少女のように微笑んだ。