52、始まりは観覧車から side拓巳
小さくて柔らかい小夏の右手。
上からそっと左手を重ねたら、彼女はスルリと手の平を上に向けて、指を絡めてきた。
ーーああ、俺はこんなにも愛しくて大切なものを手放そうとしていたんだな……。
そう思ったら、封印したはずの小夏への好きがどんどん溢れ出して、こんな所まで追いかけて来てくれた、辿り着いてくれた事がただただ嬉しくて…… 細い指を親指でスッとなぞって輪郭を確かめてから、痛いくらいに握り返した。
ーー今すぐキスしたい。
いや、思い切り抱きしめて、抱き潰して全身で想いを伝えたい。
だけど、その前にしなくてはいけない事がある。
信じてくれていた彼女に秘密を持った。
何も言わずに黙って姿を消した。
2度と離れないと誓ったのに……その約束を自ら破ってしまった。
裏切り者だと呆れられ、さっさと捨てられたって仕方がないような事をしたのに、コイツは諦めないでいてくれた。
だから俺は、今から全てを語り懺悔して、その想いに応えなくてはいけないんだ。
「……もう小夏も気付いてるだろうけど… 始まりは観覧車で掛かってきた電話だったんだ」
「うん」
『伯父さんからの電話』だって言うのも、『お祖母さんが心筋梗塞で入院した』っていうのも本当。
嘘はついてない。ただ、俺にとって一番重大で衝撃的だった内容を言わなかっただけ。
ーー母さんが見つかった。
***
『……拓巳だな? 月島敏夫だ、お前の伯父の……覚えているか?』
『はい……』
月島家を離れたのは小5に上がる直前だったから、伯父さんの声を聞くのは本当に久し振りだ。
しかも電話を掛けて来るなんて初めての事だし、第一この人は俺の番号を知らないはずだ。
だから俺はまず、身内の緊急事態……お祖母ちゃんが危篤にでもなったのかと考えて身構えた。
「はい、そうです、拓巳です……」
『穂華が……お前の母親が見つかったんだ。施設に入っていた』
ーーえっ?!
心臓が一つ大きくドクンと鳴ったと思ったら、直後にバクバクと激しく脈打ち出した。
「えっ?!……あの……どういうことですか?」
『祖母さんが隠れて世話をしてたんだ。だけどその祖母さんが心筋梗塞で入院してな。3日前の22日に心臓カテーテルの治療を受けて、翌日目が覚めたと思ったら、『穂華の面倒を見てくれ』とか言い出して……』
ーー 何だって?一体どうなってんだよ?!
身内の緊急事態というのは当たっていたけれど、その内容は俺の予想を遥かに凌駕していた。
これは簡単に済む話では無さそうだ。
俺がチラッと小夏の方を見ると、彼女も不安げな表情で見守っている。
ーー駄目だ……ここではなく、別の場所で……。
この話は小夏に聞かせたくないと、咄嗟に思った。詳しいことが分からないのに、不用意に心配をかけるような事を言いたくない。
「あの……今はちょっと話が出来ないので、また後で改めて電話させて貰ってもいいですか?」
『構わない。この番号に掛けてくれればすぐに出るから。だけど、なるべく早い方がいい』
「ああ、はい、分かりました。失礼します」
その時の俺はパニック状態で、正直言うと、目の前の小夏のことも構ってられないくらいだった。
考えなきゃ……だけど何を?
駄目だ……落ち着け……。
観覧車の後半7分半が、まるで永遠のように長く感じた。
お昼を食べた後でトイレに行くと言って、フードコートから少し離れた静かな通路で叔父に電話を掛けた。
『ああ、拓巳か。ゆっくり話せるか?』
「……はい」
『お前の母さんな、アルツハイマーって病気なんだ。アルツハイマーって言うのはな……』
「知ってます。認知症ですよね」
それは話が早いとばかりに、叔父は母の現状を伝えて来た。
『……そう言う訳で、俺と洋子じゃ穂華が興奮するばかりで話にならんのだ。祖母さんは当分動けないし、心臓が悪いのに心配させておく訳にも行かんだろう。どうだ、旅費を出すからこっちに来てくれないか?お前だって母親に会いたいだろう?』
ーー会いたい?
俺は……母さんに会いたいのか?
散々迷惑をかけられて苦しめられて、挙句に捨てられて……あの女に俺は……本当に会いに行くのか?
駄目だ、考えが纏まらない。
『拓巳……お前もいろいろ思うところはあるだろうけど、アレはそれでもお前の母親なんだ。顔ぐらい見せてやってもいいんじゃないか?それに……離れの荷物も整理して欲しいんだ』
「えっ、荷物を……ですか?」
『ああ。祖母さんももう歳だし、今回こんな事になって、いつ何が起こってもおかしくない。穂華はあんな状態だからもうこの家には戻って来れないだろう。財産のこととか今後の話し合いもしておきたいんだ』
ーークソッ!どいつもコイツも、俺の想像を軽々と超えてきやがる。お祖母ちゃんがこんな時に、早速財産の話し合いかよ!
いや、こんな時だからこそ……なのか。
あの人達にとってはそれが最優先事項なんだろうから。
ーーなんだよ、最初から俺には選択肢なんか無いんじゃないか。
ギリッと奥歯を噛みしめながら、どうにか平静を装った。
「分かりました……だけど今日1日だけ待って下さい。明日……明日の朝には出発するんで」
暫くしてようやく戻ったら、遠くのテーブルで小夏が今にも泣き出しそうな顔で待っているのが見えた。
それを見たら俺も胸が詰まって泣きたくなって、一旦近くの柱の陰に隠れて息を整えた。
そうだよな、俺には前科があるんだ。またいなくなるんじゃないかって、アイツは未だに安心できずにいるんだよな。
ーー大丈夫だ、小夏。俺はどんな事があっても、もう2度とお前の前から消えたりしないから。
あの時は……その時は心から本当に、そう思っていたんだ……。
俺は柱の陰からゆっくり足を踏み出すと、平静を装って彼女の待つテーブルへと向かった。
「俺さ、明日、ちょっと横須賀に行って来る」