45、抱き締めてもいい?
建物の裏手は表側と同様、刈り揃えられた芝生が生えていたけれど、大きく違うのはその景観だ。
緑の植え込みと白い木製のフェンスで囲まれたそこからは、眼下に港と海を一望出来るようになっている。
ザザッと言う波の音と共に、風に乗って微かに漂ってくる潮の香りを嗅ぐことが出来た。
母が立ち止まるのに釣られて私も足を止めると、遠く前方に見えるのは、車椅子に座ってフェンスから外を眺めている女性と、後ろでそのハンドルを握っている男性。
「たっくん!」
キラキラと反射している太陽の光の中、逆光でその表情は読めなかったけれど、私の声にこちらを振り向いたその人は、まさしくたっくんに違いなかった。
「たっ……たっくん!……たっくん!」
もしかしたら、二度と呼ぶことが出来なかったかも知れないその名前を、自分でもおかしくなったかと思うくらい、何度も何度も繰り返し叫んだ。
「小夏、ちゃんと聞こえてるって!」
光の中から笑いを含んだ声が返ってきて、キッという音と共に車椅子がこちらを向き、ゆっくりと近付いて来る。
キッ……カチャッ
目の前で車椅子が止まり、ブレーキが掛けられた。
そしてハンドルから手を離し、車椅子の隣に立った彼がニッと口角を上げて、照れたような困ったような笑顔を浮かべる。
「小夏……久し振り」
2週間ぶりに聞くその声は、胸を震わせるほど懐かしく、腹立たしいほど私を喜ばせた。
「何が……何が『久し振り』だ!黙って消えて、連絡もくれないで……」
「うん、ごめん」
頬がプルプルと震えて視界が滲む。
せっかく久し振りに会えたのに、これじゃ顔をちゃんと見れないじゃないか。
右手でグイッと涙を拭い、両手の拳を握りしめた。
「早苗さんも、ご迷惑をお掛けしました」
「ううん、迷惑を掛けたのはこっちよ。小夏が無茶をしちゃって……急にごめんなさいね」
たっくんが今度は母の方に向き直り、2人で会話を始める。 その様子を見るに、ここに来ることは事前に伝えてあったらしい。
ーーだから外に出て待っててくれたんだ……。
「ねえ、和倉くん、疲れちゃった。お部屋に戻りたい」
不意に甘ったるい声が聞こえて見下ろすと、車椅子からたっくんを見上げて袖を引っ張っている女性。
「穂華さん……」
私の声に、彼女が不審げな目を向ける。
「あなた、誰? 新しい職員さん?」
顔が浮腫んで瞼が垂れているし、明るかった髪色は黒になっていた。そのうえ随分と白髪も目立っている。
だけどこの人は、確かに穂華さんだ。
白いブラウスに、チェックの茶色い巻きスカート。上には黒いカーディガンを羽織っている。
そう言えば、この巻きスカートは穂華さんのお気に入りだったな……と、昔を思い出した。
「さあさあ、私がお世話しますから、一緒にお部屋に戻りましょうね」
「嫌だ、私、和倉くんがいいんだけど」
母が車椅子の後ろに回り込んでブレーキのレバーを動かすと、穂華さんは口を尖らせて不満げな顔を見せた。
だけど、『和倉くんはお仕事がありますから、それが終わるまで、お部屋で私とオヤツを食べて待っていましょうね』と母に言われ、ぱあっと表情を明るくしてコクコクと頷く。
「私、ホットミルクが飲みたいわ」
「はいはい、私がお作りしますよ」
母がたっくんに目配せすると、たっくんが「お願いします」と軽く頭を下げて車椅子から離れる。私もそれに倣ってたっくんの隣に移動し、車椅子に道を譲った。
油が足りないのかキコキコ小さな音をさせて去って行く車椅子を見送ってから、私は漸くじっくりと、隣に立つたっくんを見上げる。
同じくこちらを見ていたたっくんと視線がぶつかって、またしても瞳がじんわりと潤む。
「……お前、本当に来ちゃったんだな」
黙ってコクコクと頷く。
「小夏……抱き締めてもいい?」
「駄目っ!」
「えっ」
速攻で拒否してやったら、目を見開いて明らかに動揺している。ザマアミロ。
「……裏切り者のたっくんになんか抱き締めさせてあげない」
「そうか……そりゃあ、そうだよな……」
そっと伏せられた長い睫毛を見たら、ちょっとだけ溜飲が下がった。
「だから……だから、私が抱くんだよ」
「えっ?!」
「頑張った私へのご褒美なんだから……私がたっくんを思いきり抱き締める!」
そう言うなりガバッと抱きついて、その胸に顔を埋めた。
懐かしいたっくんの香り。懐かしくて嬉しくて、胸が熱くなる。
「馬鹿だな……こんな遠くまで……」
囁くようなその声は、甘くて優しくて、心なしか震えている。
「馬鹿はたっくんの方! 馬鹿っ! 裏切り者!」
「……ごめん」
「絶対に許さないから!馬鹿っ!」
「ハハッ、小夏の『馬鹿っ!』って言うの、久し振りに聞いた。もっと聞かせてよ」
「笑うな! 私は怒ってるんだからね!」
「ハハハッ、ごめん。 本当だな、俺が馬鹿だったな」
ーー駄目だ。
私が馬鹿バカ連呼するたびに逆に喜ばせているような気がする。
だから照れ隠しの暴言も、意地を張るのもやめて、自分の心に素直に従うことにした。
「たっくんの馬鹿…… ギュッてして」
その瞬間、たっくんの肩がピクッとなって、身体の両側にダラリと垂れ下がっていた両手がゆっくりと動いて……最後に私の背中を力強く抱き寄せた。
「小夏……会いたかった」
耳元で吐息まじりの囁きを聞いた途端、それまでの怒りも恨みも吹き飛んで、抱き締める腕の温もりと、彼への愛しさだけが残った。
「うっ……う……わ————-ん!」
優しく髪を撫でる指先を懐かしく感じながら、私は小さな子供のように、わんわんと大声で泣き続けた。