40、モンシロチョウの幻
たっくんを追いかけて横須賀まで来たのに、ここにいないとなると、もう探しようが無い。
絶望的な気分になって黙り込んでいると、幸夫くんが心配そうに顔を覗き込んできた。
「ごめん。俺、何も知らないでペラペラと……ショックだったよね?」
ーー違う、幸夫くんは何も悪くない。ここにいると思い込んで勝手に喜んでいた私が悪い。
首をブンブンと横に振って否定すると、彼はちょっと考え込んでから、「もしかしたら……」と遠慮がちに口を開いた。
「もしかしたらだけど……祖母ちゃんなら拓巳の居場所を知ってるかもしれない」
「お祖母さん……ですか?」
「うん。さっきも言ったけど、拓巳はお正月を挟んで何日か、この離れに泊まってたんだ」
そう言って、離れの玄関の方に顎をしゃくってみせる。
「はい、知ってます。荷物の整理をしてたって……」
「うん、そう」と幸夫くんが頷いて、「俺の母親、性格が悪いからさ」と苦々しい顔をした。
「俺たちのお祖母さんがさ、クリスマスのちょっと前に心筋梗塞で入院したんだ。その時に……俺は知らなかったんだけど、うちの親が、何故か拓巳を呼びつけた」
「それは離れの荷物を片付けるためだって……」
「違う、それは多分……何かのついでだ」
「……えっ?」
ハッキリと否定されて、意味がわからず首を傾げたら、幸夫くんがその時の状況を説明してくれた。
「まずさ、祖母ちゃんが入院したまでは良かったんだよ。……いや、祖母ちゃんが倒れたのは良くないんだけど、そうじゃなくて……その後に何かがあって、俺の親がバタバタし出したんだ」
ーー何か? バタバタ?
困惑顔の私を見て、幸夫くんが申し訳なさそうに坊主頭の後ろに手をやった。
「ごめん、意味が分からないよね。つまり……祖母ちゃんが倒れた時に何かが判明して、俺の親がそのことで騒ぎ出して、拓巳を呼びつけた」
「何かが判明して、たっくんを呼びつけた……?」
「そう。それには多分だけど……穂華さんが関わってる」
「えっ!穂華さんが?!」
思わず大声を上げてしまって、慌てて周囲をキョロキョロ見回した。
久しく聞いていなかったその名前に、彼女との数々の思い出がフラッシュバックする。明るい髪色をした少女みたいな華奢な姿が脳裏に浮かんだ。
「穂華さんが……見付かったんですか?」
「いや、俺にもよく分からないんだ」
幸夫くんによると、お祖母様が入院してカテーテル治療を受けた2日後、意識のハッキリしたお祖母様が、幸夫くんのご両親に何かを告げたらしい。
「家に帰って来てから2人してあちこちに電話して、保険がどうとかお金の管理がどうとか大騒ぎしててさ、その時に、穂華さんの名前が出てたんだ。うちの父親が、『祖母さん、何を勝手なことしてんだ!』ってブツブツ文句言ってた」
だけど御両親は幸夫くんには詳しいことを話そうとせず、たっくんが離れに来ていたことも、たまたま見かけて声を掛けた事で知っただけなのだと言う。
「拓巳が離れから出てくるところに出くわして、俺、ビックリしてさ。どうしたんだよ?!つって、離れに上がり込んで、更にビックリした。荷物がすっかり整理されて、段ボール箱に詰め込まれていたから」
「幸夫くんのお父さんにそう言われたって……」
「違うよ、拓巳に電話したのは父さんかも知れないけど、そう言わせたのはたぶん母さんだ。俺の父親、母さんに頭が上がらないんだよ。前からあの離れを親戚が使えるように片付けろって、祖母ちゃんに口うるさく言ってたんだ。だけど祖母ちゃんは、あそこは拓巳の部屋だから、勝手に触るわけにはいかないって」
大人しくて穏やかなお祖母さんにしては珍しく、頑に拒んでいたのだという。
たっくんの話で聞いていた通り、たっくんのことも可愛い大事な孫として、優しく深い愛情を注いでくれていたんだろう。
自分の娘である穂華さんの犠牲になっている孫を不憫に思ったのかも知れないし、贖罪の気持ちもあったのかも知れない。
「お祖母様は、今はこの離れに?」
「それが……今は病院なんだ」
「えっ?もう退院されたんじゃ……」
「今度は心不全。去年入院してから、なんだか一気に弱々しくなっちゃってさ。動くと呼吸が苦しいってゼイゼイ言い出して、4日前に入院したばかり」
「病院は、ここから近いんですか?」
「車で20分弱かな」
「この辺りってタクシーは……」
「簡単につかまらないから、電話で呼ぶといいよ。上手くいけば5分か10分くらいで来てくれる」
「10分……」
スマホで時間を確認すると、午後5時49分。
すぐに頭の中で慌ただしく逆算を始める。
新横浜から横須賀の駅までが約40分、そこからタクシーで更に20分は掛かっていた。午後7時台の新幹線に乗ることを考えると、病院に寄っていたらギリギリの時間……
ーーダメだ、迷ってる時間が勿体ない!
「幸夫くん、この辺りってタクシーは……」
「簡単にはつかまらないから、電話で呼んだ方が早い。俺が呼んでやるよ」
幸夫くんの言った通り、電話してから8分程で黒塗りのタクシーが家の前の通りに停まった。
「早く乗って!母さんたちに見つかると面倒だから」
そう言われて素早くグレーのシートに滑り込むと、幸夫くんがドアを掴んで顔だけ突っ込んで来た。
「良ければだけど、俺にもどうなったか教えて欲しい。拓巳も祖母ちゃんもみんな、肝心な事は何も教えてくれなくて……俺だって家族なのに、蚊帳の外のままなんて、嫌なんだ」
私が頷くと、彼が「ありがとう、気を付けて。拓巳に会えるといいな」
そう言って顔を引っ込め、ドアがバタンと閉まった。
微笑みながら手を振る姿が窓から見えなくなってから、漸くシートに深く身体を預けて目を閉じる。
酷く疲れているはずなのに、妙に目が冴えているのは、懐かしいあの名前を聞いたからだろう。
ーー穂華さん……。
何があったのかは分からない。
だけど、一連のたっくんの行動の理由が彼女だったとすれば……全部辻褄が合うような気がした。
だってたっくんは、誰よりもお母さんを大切に思っていた。
いつだって彼女のために必死になっていた。
そのために自分の身を犠牲にしても……だ。
穂華さんとの暮らしを守るために8年前に私を諦めたように、今回もまた、彼女のために私を切り捨てたんだろうか。
胸に湧き上がってくる不安を消し去りたくて、手の中のスマホをジッと見つめる。
そこにはたっくんに頬にキスされて驚いている私や、笑顔で並んでピースサインしている、2人のベタなプリクラ写真。
ーーたっくん、どうか今度は諦めないで……。
幸夫くんに言った、『彼女』と言う言葉が今も有効であって欲しい。
そう思いながら左手をギュッと握りしめる。
もう一度ゆっくりと目を閉じたら、何故かたっくんではなくて、穂華さんの美しい顔が浮かんだ。
ハッとして目を開けたら、いるはずもないのに、窓の外を可憐なモンシロチョウがひらひらと飛んでいる幻が見えた気がした。