32、写真立ての無い部屋
目が覚めると、そこは保健室だった。
ーーこんな時でも私は寝れるんだ……。
Aクラスの女子からたっくんのことを聞かされたあと、私は目眩がして気分が悪くなり、トイレに駆け込むと便座に手をついて胃の中のものを全部吐いた。
それでも気分が悪いのは変わらなくて、トイレまで様子を見に来た千代美と清香に両側から支えられて保健室まで来たのだけれど、ベッドで考え事をしながらそのまま眠ってしまったらしい。
改めて考えてみても、何がどうなっているのか分からない。唯一分かっているのは、たっくんが私に何も言わず休学を決めたという事だけ。
白い天井をぼーっと眺めていたら、目尻から生暖かい滴が流れ落ちて、両方の耳を濡らしていった。今は何かを考えることさえ億劫だ。
そうしていたら保健室のドアがガラリと開き、上靴の足音が近付いてきた。カーテンがシャッと開いて、千代美と清香の心配そうな顔が覗く。
「小夏……起きたんだね」
千代美の声に黙って頷くと、清香が「鞄を持って来たわよ。今日はもう授業どころじゃ無いでしょ? それに教室にいたら、また女子がいろいろ無神経な事を言ってくるから」そう言って顔の横で鞄をかざして見せた。
「今……何時?」
ベッドの上で上半身を起こして清香から鞄を受け取ると、中から自分のスマホを取り出して見る。
液晶画面に浮かんだ時刻は午前9時34分。もうすぐ2時間目が始まる時間だ。
「2人ともありがとう。迷惑をかけてごめんね」
「ううん、私たちのことより……小夏の方が心配。和倉くんのこと……」
清香がそこまで言ったところで、廊下からバタバタと大きな足音が聞こえて来て、保健室のドアがバンッ!と開けられた。
そのまま足音はこちらに向かって来て、カーテンが引きちぎられんばかりの勢いでガシャンと横に開かれる。
「紗良さん?!どうして……」
白いセーターにカーキ色のモッズコート、下は黒いスキニーパンツというラフな格好の紗良さんが、清香たちを押し除けるようにベッドサイドに立つと、鋭い目つきで見下ろしてきた。
紗良さんは地元の私立大学に指定校推薦枠で一足先に合格を決めたと噂に聞いている。
3年生は卒業式を前に既に自由登校になっているから、彼女がわざわざここに来た理由は明らかだ。
「拓巳が休学したって、どういうこと?何があったの?」
ーーやっぱり……。
たっくんファンの連絡網は今も健在らしい。
紗良さんは、彼が休学になった事を取り巻きだった誰かから聞いて、急いで駆けつけたんだろう。髪はいつもみたいに巻いてなくて乱れているし、息も切らしている。
彼女は今もたっくんを想っているんだ……。
ーーだけど、ごめんなさい……
「……分かりません」
「はっ?分からないって……何も私は拓巳に手を出そうって思ってるわけじゃないのよ。ただ、休学の理由を……何があったのかを知りたいだけ。隠さないで教えてもらえないかしら?」
「ごめんなさい。だけど私も……何も知らないんです。本当にごめんなさい……」
言いながら声が震えてきた。シーツの上に置いた手をギュッと握りしめる。
「拓巳は病気になったわけではないのよね?アパートにいるの?」
「……分かりません」
「休学の理由は聞いてる?」
「聞いてません……本当に何も知らないんです……」
「知らないって、あなた……」
唇を噛んで俯く様子を見て、私の言葉が本当だと悟ったんだろう。途端に声に同情の色が浮かび、口調が柔らかくなった。
「……分かったわ。拓巳のアパートを教えてちょうだい。行って直接話を聞いてくるから」
「……嫌です」
「嫌って、あなたねぇ、拓巳を心配してるのはあなただけじゃないのよ!」
「分かっています。だけどアパートは教えたくありません!」
この期に及んでまだ嫉妬だなんて、みっともないのは分かっている。
それでもたっくんが教えなかった事を私が勝手に教えるわけに行かないと思ったし、あの部屋に私以外の女性に足を踏み入れて欲しくはなかった。
「だから代わりに……私が行きます。私がたっくんに会って話を聞いてきます!」
紗良さんは少し目を細めて苦々しげな顔をしたけれど、すぐに諦めたのか溜息をつきながら、「私の番号を言うから登録してちょうだい」
そう言って自分の電話番号を口にした。
***
山中駅に着いてすぐにたっくんに今日3回目の電話を掛けたら、やはり今回もすぐに留守電に切り替わった。
「たっくん、今からたっくんのアパートに行きます。話がしたいです」
そうメッセージを残してアパートへと向かう。
アパートの近くまで来ると、遠目に見覚えのある車が停まっているのが見えた。
黒いガッチリしたピックアップトラック。
ーーリュウさん?
小走りで近付いたら、後ろの荷台に黒いローソファーと丸めて紐でグルグル巻きにされているマットレスが置かれている。
ーーえっ、どうして?!
そこからアパートを見上げたら、たっくんの部屋のドアが開いて、車の持ち主が知らない男の人と2人で家具を運び出して来るところだった。
ピシッと真っ直ぐなヒビが入ったガラステーブル……。
「リュウさん!」
私の声に気付いたリュウさんがこちらを見下ろしたかと思うと、目を見開いてギクッとして……次に『しまった』というように顔をしかめた。
嫌な予感がして、私は弾かれたように階段を駆け上がって行く。心臓がドクドク脈打ち、胸がザワつく。
「小夏ちゃん、待って!」
リュウさんが止めるのも聞かずにたっくんがいるはずの部屋に飛び込むと……
そこにあったのは、あらかたの家具が運び出されてガランとした部屋と、写真立てが飾られていない三段ボックスだった。