31、何も知らない。
『なんか変だな』と思ったのは、月曜日の朝のことだった。
いつも駅の改札の所で待ってるはずのたっくんの姿が無くて、スマホでショートメールを送ってみたけれど返事が無かった。
ーー風邪でも引いちゃったのかな? 金曜日の晩に濡れたままベッドに入ったりしたから……。
「後でもう一度メールしてみよう」
その時はそれくらいにしか思っていなくて、むしろ金曜日のお風呂のことや仲良しぶりを思い出して顔をニヤケさせて、清香たちに脇を小突かれていたくらいだった。
金曜日の晩に最高の時間を過ごした私達は、土曜日にたっくんの提案でペアシートで映画を観てから、街をぶらぶらと歩いてウインドーショッピングを楽しんだ。
「ねえ、アパートにナイフとフォークもあった方が良くない?指輪の御礼にそれくらいは私が買うよ」
「えっ?箸があれば十分だろ。小夏に買ってもらうなら身に付ける物とか俺が使う物の方がいいし」
「ナイフとフォークだって、たっくんが使う物だよ」
「う〜ん……だけどいらない」
「それじゃ、お皿も?いつまでも紙皿じゃ困るでしょ?」
「それも……いらない」
却下されてしまって結局買うことが出来なかった。
それからアパートに戻って、2人でまたお喋りしたりイチャイチャしながら過ごして、家の近くまで送ってもらったのが夜の7時ちょっと前。
家の近くの曲がり角で立ち止まると、たっくんが手に持っていた箱を「ほら」と差し出した。中には誕生日ケーキの残り半分が入っている。
「本当に私が貰っちゃっていいの? 良かったら明日の昼間にでもアパートに食べに行くよ」
「明日の昼は、ちょっとリュウさんと約束があるんだ。だからこの残りは小夏が食べて」
「そっか。うん、ありがとう」
私がケーキの箱を受け取って右手に持つと、すぐにたっくんが身体を折り曲げてキスしてきた。
「もう、不意打ち!」
「ハハッ……」
笑いながら、今度はギュッと抱きしめてくる。
「小夏……好きだ」
「うん、私もたっくんが大好きだよ」
両手をたっくんの背中に回して見上げたら、もう一度、今度は長くて深いキスが降って来た。
しつこいくらいに長いそのキスを、
「ちょ……ちょっと!家の近所だし、さすがにもう人が来ちゃうから!」
人目を気にしてキョロキョロしながら、たっくんの胸を押す。
「そっか……残念。このままお姫様を連れ帰ってやろうかと思ってたのに」
「もうっ、また!そう言うことばっかり言って、すぐからかう!」
「ハハハッ、可愛いな、小夏」
冗談を言ってまた笑った。
「それじゃ……小夏」
たっくんが右手を差し出してきたから、私は慌ててケーキの箱を左手に持ち替え、右手で握り返した。
握手する手を見つめていたと思ったら、たっくんがグイッとその手を引き寄せて、またしても私を抱きしめる。
「はぁ〜っ……離れがたい……ヤバイな」
「ふふっ、これじゃキリが無いね」
「ホント駄目だ、好きって際限が無い。今がMAXで好きだと思ってるのに、その直後に愛しい気持ちがどんどん溢れてきて、余裕でMAXを超えてくるんだ」
「……うん」
「『好きだ』ってどんだけ口に出しても溢れてくる。伝えても伝えても足りないし、間に合わないよ。……俺……小夏と離れたくない」
「うん……私も……」
そのまましばらく抱き締めあったあと、ゆっくり身体を離して来たのはたっくんの方で、
「……行けよ。俺がずっと見送っててやるから」
最後は優しく微笑んで、ポンと背中を押してくれたんだ。
玄関に入る前にそっと振り返ったら、曲がり角のところに見えたのは、右手を高く掲げてゆっくり振っている、柔らかい柔らかい、天使のような笑顔だった。
なのに……。
「ねえ、ちょっと!和倉くんが休学って、どう言うこと?」
「和倉くんの家庭の事情って何? 本当は怪我か病気でもしたんじゃないの?」
1時間目が終わった途端に隣のAクラスから何人かの女子が押し寄せて、私を取り囲む。
そして彼女たちの口から次々ともたらされた情報は、私が全く知らない事ばかりだった。
彼女たちによると、朝のショートHRで担任の口から聞かされたのが、
『和倉くんは家庭の事情で学校に来れなくなった。これから2年生の終わりまでは休学扱いだけど、3年生になってもこのまま学校に戻る予定は無い』
と言う事だった。
当然クラスの皆は驚愕し、たっくんファンの女子がこうして彼女である私に事情を聞きに来たらしいのだけれど……
「嘘っ!……私……何も知らない」
「えっ、嘘でしょ?折原さん彼女なのに……本当に何も知らないの?」
「知らない……聞いてない……」
本当に、私は何も知らなかったんだ……。