8、彼シャツでいいだろ?
少しずつ小走りになっていた足が、最後には全速力に変わっていた。
あんなに怖かったはずの外階段を、手を繋いだまま勢い良く駆け上がって、ドアが開くと同時に部屋へと飛び込んだ。
閉じたドアに背中を押し付けられて、いわゆる壁ドンの体勢で、顔中にキスが降ってくる。
額、鼻、頬、そして唇…… 最後に上唇を啄むようにチュッチュと口づけてから、たっくんが一旦顔を離して、上から見下ろす。
「お前……ホント可愛いな」
思わず頬を赤らめると、クスッと笑いながら、少し傾けた顔が近付いてくる。
「小夏、口を開けて」
「えっ……」
たっくんの柔らかい唇がグッと押し付けられたと思ったら、隙間から舌が差し入れられてきた。
「んっ……」
その唇は角度を変えながらもずっと離れることはなく、息継ぎをする間も与えられない。
ゾクリとした快感が、触れた舌先から背中に伝わり、それが全身に拡がった。
「ん……ぷはっ!」
漸く口が離れた隙に慌てて息をしたら、またしてもフッと鼻で笑われる。
これが上級者の余裕というやつか。
なんだか悔しい。
「ヤバいな……マジで可愛い」
「もう!そういうの、ホント恥ずかしいから!」
「いや、でも、マジでさ……」
たっくんは玄関に放り出していた荷物を右手でガサッと持ち上げて、左手で私の腕を引っ張って行く。
「えっ、ちょっと!」
私は慌てて靴を脱いで、転びそうになりながらも腕が引かれた方向へと足を運ぶ。
たっくんが部屋の右奥にあるスライドドアを開けると、そこには鏡つきの洗面台があって、床には足拭きマットが敷かれていた。湿気のある空気を感じ、その奥に浴室があるのだと分かる。
「このタオルを使って」
洗面台の隣にある縦長の棚に手を伸ばして白いタオルを一式取り出すと、浴室の扉のバーにパサリと掛けた。コンビニの袋に手を突っ込んで、買ってきたばかりの下着と歯ブラシを「はい、コレ」と手渡してくる。
「あ……はい」
差し出された物を両手で素直に受け取りながら、ああ、シャワーを浴びろということか……と理解した。
「パジャマが無いよな? 彼シャツでいいだろ?」
ーーうわっ、彼シャツ?!
漫画や小説の中で幾度か登場してくる、でも自分には絶対縁がないと思っていたワードが飛び出してきてドキッとする。慌ててコクコクと頷いた。
たっくんはそんな私の様子を見て表情を緩めると、「待ってて」とその場から出て行き、しばらくして、大きめの白いTシャツを持って入ってきた。
「そんじゃ、シャワーの後はコレな。絶対に似合うぞ」
またしてもコクコクと頷く。
「シャワーはレバーハンドルで、左に動かしたらお湯で、右が水な。それじゃ、ごゆっくり」
もう黙って頷くしかなくて、『私は声の出ない人形かっ?!』と心の中で自分にツッコミを入れた。
たっくんが出ていくのを待って服を脱ぎ、浴室に足を踏み入れると、樹脂素材の床が冷んやりと足裏に触れる。
たっくんと手を繋いで歩いていた時には、これから自分たちがそうなる事が当然だと感じていたのに、1人取り残されると途端に心細くなり、凄く大変なことをしようとしているのだと緊張してきた。
ーー本当に……いいんだよね?
自分に言い聞かせるようにウンと頷きシャワーのレバーハンドルを動かす。
ーーあっ!
「たっくん!シャンプー使ってもいい?」
「えっ、何?」
しばらくして脱衣所に入ってきたたっくんに、シャワーの音に負けないよう大声で叫ぶ。
「シャンプー使ってもいい?」
「ああ、好きなだけ使え。赤いボトルがシャンプーで白い方がコンディショナーな」
扉のすぐ側から声が聞こえてドキッとする。
シャンプーは市販では見慣れないブランドの物で、爽やかなローズグリーンの香りがした。
湯上りに着たたっくんのTシャツはかなり大きめで太腿まで隠してくれたけれど、下がスースーしてかなり恥ずかしい。
髪をタオルでターバン巻きにしてヒョコッと顔だけ出して「ドライヤーはある?」と聞くと、壁際の黒いマットレスに腰掛けたたっくんが、「スタンバイ済み」と言いながら手招きして来る。
チョイチョイっと指差され、マットレスの前の床に体育座りすると、ちょうどたっくんの脚の間にすっぽり収まる形になった。
たっくんが手にしていた青いドライヤーで私の髪に温風を吹きかけると、ローズグリーンの香りがフワッと広がる。
「コレいいな、俺シャツを着た彼女から、俺のシャンプーの香り」
「そのうえ髪まで乾かしてもらえるなんて、至れり尽くせりだね。なんか幸せ」
「うん……俺も……。俺、小夏の髪を触るの好きなんだよ。俺以外には触らせたくないな」
「うん……私も、たっくんに触られると気持ちいい。好きだな……」
「小夏」と名前を呼ばれて振り向いたら、チュッとキスが降ってきた。
「はい、乾燥終わり。俺もシャワー浴びて来るから、布団に入って心の準備しとけよ」
えっ!と仰け反った勢いで後ろのマットレスにボスンと倒れ込んだけど、既に脱衣所に向かっていたたっくんにはその情けない姿が見えていなくて、ああ良かった……と思った。
倒れ込んだついでにそのままマットレスによじ登って、黒地に白とグレーのストライプが入った掛け布団の中に滑り込む。
どう見てもシングルサイズのそれは2人で寝るには狭そうで、1つの枕に頭を並べているその姿を想像して、顔が熱くなる。
ふと近くにあるパイプハンガーを見たら私の制服がちゃんとハンガーに掛けてあって、たっくんは彼氏としてもイケメンだな……こんな人が私の彼氏なんだなぁ……と考えると、とても不思議な気がした。
「小夏、ドライヤー貸して」
頭にタオルを被ったたっくんが、上半身裸にダボッとした紺のスウェット姿で出てきて、布団の中の私を見て、足を止めた。
「うわっ、ヤバイな」
「えっ、ごめん、ヤバかった?」
やっぱり先に布団に入ってはいけなかったのかと身体を起こそうとすると、無言で押し戻されて、頭がボスンと枕に沈んだ。
その上からたっくんが両手をついて見下ろして来る。
「マジでヤバイ……エロ過ぎる」
「えっ?……ハハッ、色気があると言われた事が無いので、光栄です。えっと……あの……シャンプー高そうなの使ってるね」
「高いかどうかは良く分かんないけど、選ぶの面倒だから美容院で薦められたのを買ってる」
「そっか……それから……制服を掛けておいてくれてありがとう。ドライヤーも……優しい彼氏で幸せで……あっ」
言い終わらないうちに唇を塞がれて、心臓がドキンと高鳴る。
短いキスだけで唇が離れると、至近距離から青い瞳がジッと見つめている。
「小夏、緊張してるのは分かるけど、ちょっと黙って。俺も緊張でいっぱいいっぱいだから、集中したい」
「ごめん……えっ、集中?!」
私が落ち着きなく目をキョロキョロさせていると、たっくんがフッと笑って、
「ヤバい……やっぱお前、可愛すぎる……」
そう言って、今度はゆっくり顔を近づけてきた。
長い睫毛がスローモーションのようにパサッと閉じられるその瞬間、彼の瞳には私しか映っていなかった。
ーーうん、私はシアワセだ……。
そう思いながら、私もたっくんの綺麗な顔を瞳に閉じ込めたまま、そっと目を閉じた。