5、お前を連れ帰ってもいいんだよな?(前編)
たっくんが木製のドアをギッと開けると、店内から洒落たジャズの音と明かりが漏れてきて、前に来た時の苦い経験を思い出させた。
「さあ、どうぞ」
たっくんに促されて店内に足を踏み入れると、途端にお客さんの視線が集まる。
私にじゃない。私の後について入ってきたたっくんに……だ。
「キャー!拓巳、今日は休みなんじゃなかったの?」
「良かった〜!拓巳がいないって言うから帰ろうと思ってたとこだったのよ!」
「拓巳、カクテル作ってよ」
一緒の静寂の後で、大きな歓声。そして浮き足立つ女性客。
「おいで」
たっくんが私の手を引いて奥のカウンターに向かうと、それを追い掛けるように客の視線が移動するのが分かった。
ーー私、来ちゃいけなかったのかも……。
たっくんの希望を叶えたいと、調子に乗ってついて来たのはいいけれど、よく考えたら、ここに来ている客の大半はたっくん目当てなんだ。
私が一緒に来て、彼女たちが喜ぶはずがない。
そんな私の逡巡にも気付かず、たっくんは笑顔でリュウさんに話し掛ける。
「リュウさん、忙しそうだね」
リュウさんはカウンターの奥でシェイカーを振っていたけれど、たっくんと、それから隣に立っている私に気付くと、表情を緩めてカウンター席の端を顎でしゃくった。
そこに座れと言うことらしい。
カクテルをグラスに注いでカウンター席の客に出すと、私たちの目の前に立って、「いらっしゃいませ」とメニューを差し出す。
「お前、休みが欲しいって、今日はデートだったのか」
「そう、初デート。な?小夏」
リュウさんから受け取ったメニューを開きながら、たっくんが事もなげに言ってのける。
「えっ、初デート?」
「何言ってんだよ、さっきデートだって言っただろ。あっ、リュウさん、この子、俺の彼女の小夏」
ーーあっ!
たっくんがサラッと言ってのけたその瞬間に、お店の空気がザワついた。
そっと振り向くと、案の定、女性客の険しい視線が向けられていて、慌てて前を向き直す。
背中に緊張が走る。
「小夏ちゃん、この前はどうも。今日は雰囲気が違うね」
「あっ、はい!」
リュウさんから話し掛けられて、反射的にカウンターチェアから飛び降りると、
「折原小夏です。よろしくお願いします」
ペコリとお辞儀をしたら、リュウさんが一瞬ポカンとした表情をして、それからハハッと笑った。
「礼儀正しい子だね。なんだか息子から彼女を紹介された父親の気分だわ」
「こんなガラの悪いオヤジは御免ですよ。小夏、何か飲む?ソフトドリンクはここ」
たっくんが目の前でメニューを開いて見せてくれる。
「あっ、『抹茶ミルク』がある」
「小夏、コレは駄目。リキュールが入ってる」
「そうなんだ。それじゃウーロン茶で」
「オッケー。リュウさん、ウーロン茶……あっ、いいや、俺が自分でやる」
たっくんが立ち上がろうと腰を浮かせた時、後ろの席からクスクス笑いが聞こえて来た。
「なに、あの子、お酒の種類も知らないの?」
「ダサっ!」
「なんであんな子が拓巳といるわけ?」
「地味過ぎて可愛そうだから付き合ってあげてるんじゃないの?」
「やだ、ボランティア?」
中傷とクスクス笑いが背中に容赦なく突き刺さる。自分の顔がカッと熱くなるのが分かった。
確かに私は場違いだ。たっくんに恥をかかせてしまう。
ーーうん、リュウさんに挨拶は出来た。ここは先に帰ろう。
「たっくん、私……」
「リュウさん、俺、トイレ!」
『帰る』と言おうとしたその時、たっくんが被せるように大きな声を出した。
そして私の三つ編みを手に取ると、その先にチュッと口づけて、私をチラッと見上げる。
「小夏、俺がトイレに行ってる間に浮気すんなよ。リュウさん、俺がいない間、俺のお姫様にちょっかいかける奴がいないかちゃんと見張っといて下さいよ。大事な子なんで、よろしく!」
そう言い残して、奥へと消えた。
「私……気を遣わせちゃってますよね」
目の前でグラスを出しているリュウさんに話し掛けると、「まっ、彼氏だし、あれくらい頑張って当然なんじゃない?」そう言うと、私に顔を近づけて、そっと囁いた。
「ごめんね、あの女の子たち、拓巳狙いで店に通ってるからさ、小夏ちゃんが羨ましいんだよ。堂々としてればいいから」
そしてフードメニューを開いて、「何か食べる?拓巳に作らせるよ」とニッコリ微笑みかけた。
そこにたっくんが戻ってきてカウンターに入ると、私のためにウーロン茶を用意し始める。
「小夏、リュウさんに口説かれなかった?大丈夫?」
「拓巳がいない間に必死で口説いたけどフラれたよ」
「ハハッ、当然。コイツは俺のだから。手を出したらリュウさんでもぶっ飛ばすよ」
「小夏ちゃん、嫉妬深い彼氏を持つと大変だね。嫌になったら俺に乗り換えなよ」
「マジでぶっ飛ばす!」
2人の漫才みたいなやり取りを聞いていたら、なんだか心が軽くなった。
ーー良かった……たっくんにも心を許せる人がいて。
離ればなれになっていた6年間には辛い出来事があったけれど、私に千代美や清香という親友が出来たように、たっくんにも素敵な出会いがあったんだ……。
たっくんは、ずっと孤独だった訳じゃなかった。
苦しい時に手を差し伸べてくれる人がいた……
それが心から嬉しかった。