53、お下げ髪のあの子
シャワーの音で目が覚めて、枕元のデジタル時計を見たら、もう朝の10時を過ぎていた。
「だっる……」
頭も体も重くて動くのがシンドイ。
寝る前に飲んだビールがまだ体内に残っているのかもしれない。
腕で目を覆って再び目を瞑っていると、シャワーが止まってカチャッと浴室のドアが開く音がした。
腕をどけられて眩しさに顔をしかめると、唇にチュッとキスが落とされた。
「おはよう拓巳。シャワーを浴びてきたら?」
「う〜ん……だるいな」
「もう10時過ぎよ。チェックアウトの時間になっちゃうわ」
紗良にそう言われて漸く目を開けると、俺は上半身を起こして溜息をつく。
「昨日重たいものを運んだから筋肉痛でさ……」
アパートで一人暮らしを始めて4週間が経った。
いつ朝美に嗅ぎつけられるか分からなかったから荷物は増やしていなかったけれど、そろそろいいかと思い、春休みが終わる前に生活必需品のセットアップをする事にした。
リュウさんに愛車のごっついピックアップトラックを出してもらってホームセンターに行ったのが昨日のことで、目当てのパイプハンガーと三段ボックスを物色していたら、リュウさんに「自炊しろ」と言われ、使う予定のないフライパンや小鍋などの調理器具まで買う羽目になった。
それだけでも充分なのに、リュウさんの知り合いがいらなくなった家具があるからと言って、その人の家に寄って黒いローソファーと黒いメタル枠のガラステーブル、そしてマットレスまで貰って来たから、ほんの数時間にして、俺の部屋はすっかり物で溢れ返った。
『うわっ、狭っ!』
『今までが何も無さ過ぎだったんだよ』
『物を増やすと出てく時に大変なんですよ……』
『これから3年間の高校生活が始まるってのに、今から出てく時のことを考えんなよ』
『俺っていい加減なヤツなんで、高校だっていつまでいられるか……』
フッと薄く笑った俺を見て、リュウさんは頭に手を伸ばして来て、勢いよく髪をワシャワシャ乱してきた。
『うわっ!何すんですか、髪が乱れる!』
『お前なぁ〜、そんな事を言ってても、根は真面目なのが丸分かりなんだよ。挨拶はちゃんとしてるし、俺にもいまだに敬語。店の手伝いを頼んだら遅刻しないし、仕事ぶりも丁寧でしっかりしてる。頭も悪くない』
『俺を買い被りすぎですよ』
『拓巳……過去のお前に何があったのかは知らないけどさ、まだ十代の思いっきりキラキラしてる時期に、そんな暗い目をしてんなよ。口やかましく言うつもりは無いけどさ、硬い床の上で毛布に包まって寝るなんてのは絶対にダメだ!今夜からはこのマットレスの上でぐっすり眠って、いい夢を見ろ!いいな!』
『未成年に酒場でバイトさせる男に言われても……』
『うるさいっ!それは別の話だ。俺の店には絶対に来い。売り上げが掛かってる』
『ハハッ、何だよソレ、身勝手な大人だな』
『そうだよ、大人になると、身勝手で薄汚れんだ。だからお前は今から急いで汚い大人にならなくたっていいんだ。分かったか!』
またしても髪をワシャワシャと乱されながら、俺にも兄貴がいたらこんな感じだったのかな……なんて考えた。
兄貴がいたらもっと色々相談できたのかな。
もっと早く家を出て独立出来てたのかな。
俺もこんな最低なヤツにならなかったのかな……。
だけど全ては絵本の中に描いた夢物語。
憧れることは出来ても、その物話の主人公になることは決してない。
そう、雪の国のカイはゲルダが救い出してくれたけれど、俺はカイでも無ければ素敵な王子様でもない。
ハッピーエンドをひたすら願って待ちくたびれるよりも、そんなのは無いのだと悪役に徹している方が気が紛れるんだ。
少なくともその間は寂しくない……。
紗良に前髪を触られて、ハッと現実に引き戻される。
「マジで昨日はシンドかったんだって。男2人でヒーヒー言いながらマットレスを運び込んでさ」
「普段から運動してないからよ。高校でテニス部にでも入る?」
「嫌だよ、メンドクサイ。そんなの始めたらリュウさんのとこでバイトする時間が無くなっちゃうじゃん。それに運動なら、セックスしてるし」
紗良はフフッと笑うと、「これから特進クラスに通うっていう優秀な生徒が、こんなに爛れちゃってていいのかしら?」
そう言ってチュッとキスを落としてきた。
「ねえ、延長しちゃう?」
「……シャワー浴びてくるわ」
シャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かしていたら、後ろから紗良に抱きつかれた。
「ねえ、私、拓巳のアパートに行ってみたいんだけど」
「駄目、絶対に来んな」
「来るなって……場所も教えてくれないくせに」
俺はドライヤーを止め、甘えた声を出してくる紗良の手を振りほどくと、鏡の中のアイツを冷たい視線で見下ろした。
「紗良、俺はお前を他の女よりも優先させてるし、呼ばれたらなるべく応じるようにしてるよ。だけどそれは、お前に恩があるからだ。俺は彼女は作らないし、誰かが特別だなんて思ったことも無い。生活に立ち入られるのはウザイし迷惑」
途端に紗良は目を伏せて、声を小さくさせる。
「そんなこと……分かってるわよ……」
それを聞いて、再び黙ってドライヤーを手にしたら、後ろから呟くように聞かれた。
「あの子……前に話してた、お下げ髪の幼馴染だったら部屋に入れちゃうわけ?」
「入れるよ」
俺が即答したら、後ろで紗良が固まった。
「あの子は俺の希望で生きる理由だから。俺……アイツのためなら死ねるよ。マジで、躊躇なく」
背中で溜息が聞こえて、紗良の体が離れて行った。
俺は再びドライヤーのスイッチを入れて、鏡の奥にお下げ髪の小夏の顔を浮かべながら、無言で髪を乾かした。
ーーだけどもう会えない。会うはずがない。
俺は今のアイツを知らない。
何処にいるかも分からない。
もしかしたら、もう彼氏だって……。
いや、彼氏がいたって奪い返す。
アイツは俺の唯一の希望で俺の女神なんだ。
アイツを失ったら、俺は……。
ーー『失ったら』って…… 失うもなにも……。
「……だから、会えないっつーの!」
鏡に向かって自嘲すると、俺はとっとと着替えてドアへと向かった。