50、泥沼に沈む
「ねえ、私と同じ高校に来なさいよ」
「『陽向高校』に?俺が?」
「そう。拓巳、家を出たいってずっと言ってたでしょ?ここから陽向高校なら通学に不便だから、一人暮らしの理由になるんじゃない?」
ホテルの部屋でベッドに寝そべっていたら、上から紗良が顔を覗き込んで来た。
サイドテーブルに置いていたスマホを手に取って『市立陽向高校』で検索してみる。
家から学校まではバスと電車を使わなくちゃいけなくて、乗り継ぎ時間を入れたら1時間以上かかることになる。確かに微妙に不便な場所と距離だ。
「拓巳は成績は悪くないんだし、高校に行かないのは勿体無いわよ。今から頑張れば特進クラスにだって入れるし、それならお義父さんだって文句を言わないんじゃない?」
紗良が自分と同じ学校に俺を通わせたいだけなのは分かっていたけれど、一人暮らし出来ると言うのは魅力的だった。
中学を卒業と同時に逃げ出す事しか考えてなかったから、当然働くしかないと思っていたけれど、なるほど、高校に通いながらの『一人暮らし』という選択肢もあったんだ。
ただ、それを朝美が許してくれるとは思えない。
許してくれたとしても、アイツがこれ幸いと押し掛けて来たら、家を出たって意味がないんだ。
ーーやっぱり無理だよな……。
「……悪くない案だけど……ちょっと考えてみるよ。情報をありがとな」
「ふふっ、どういたしまして。ご褒美は?」
上から期待に満ちた目で見つめてきたから、枕から頭を起こしてチュッと短いキスをしたけれど、それだけでは不満だったみたいだ。
拗ねた顔をしたまま動こうとしないから、紗良の首に手を回して引き寄せたら、喜んで自分から唇を重ね、抱きついてきた。
***
「家を出るだって?!」
「はい。中学を卒業したらアパートを借りて、家を出て行きたいと思っています」
十蔵さんは腕組みをしたまま、湯気の立ち上る銅鍋をジッと見つめて考え込んでいる。
十蔵さんに『2人だけで話をしたい』とメールをしたのが今朝の登校直後で、1時間目が始まる前には『今夜、外で食事しよう』という返事が届いていた。
十蔵さんが待ち合わせ場所に指定してきた駅前の時計広場で待っていると、約束の5時ぴったりに小太りのスーツ姿が現れて、連れて来られたのが老舗のしゃぶしゃぶ鍋の店だった。
趣のある純和風のお店は、1階が一般客用、2階が個室になっていて、俺たちは仲居さんに案内されて、2階の個室に入った。
俺が個人的にメッセージを送るなんて初めてのことだったから、よっぽどの事だと受け取ったのだろう。
あれからいろいろ考えてみたけれど、やはり中学を卒業したら和倉の家を離れようと決めた。
朝美との繋がりがある限り、俺はずっと泥沼の中に沈み込んだままだ。
もう殆ど頭までずっぽり沈みかけてるけど、今ならまだ十蔵さんへの罪悪感や、自分への嫌悪感は残っている。
この感情まで失ったら、もう自分は終わりだと思った。
泥沼の底の底に足を捕われて浮き上がれなくなる前に……とにかく離れるんだ。
十蔵さんが腕組みをしたまま目を閉じて動かないから、まさか寝てしまったのかと顔を近づけたら、おもむろに目を開いて、霜降り肉を鍋に入れて濯ぎ、「ほら、拓巳くん、沢山食べなさい」と俺の器に肉を放り込む。
せっかくだから、肉で薬味ネギを巻いてゴマダレにつけて食べたら、肉が口の中でとろけて消えた。
「美味っ!」
「そうだろう。この店は名古屋で初めてしゃぶしゃぶ鍋を出した店でね、接待に良く使わせてもらってるんだよ」
ニコニコしながら自分も箸を取って食べ始めた。
「あの……」
「うん……そうだね、話をしないとね。……拓巳くんが言いたいことは、察しがついてるんだ」
「えっ?」
「その……朝美のせいなんだろう?朝美から離れたくて、家を出るなんて言い出したんじゃないのか?」
「えっ?!」
すると十蔵さんは箸置きに箸を揃えて置き、テーブルから一歩下がって膝を揃えると、「すまない!」と頭を畳に擦り付けた。
「拓巳くん、 本当にすまない!私は君と娘のことを知っていたんだ。 朝美が前から君に気があることも気づいていたし、 あいつが君の部屋に入っていくのも見かけたのに……言えば君が出て行ってしまうと思って……口に出すことが出来なかった」
「へっ?」
ーー何言ってんだ?このオッサン……。