48、雪の国のカイ
「ねえ拓巳、結局小夏さんとは会えなかったのよね?」
「えっ?」
ドライヤーの音がうるさくて、何を言ってるのかよく聞こえない。
髪の毛がこれだけ乾いたらもういいだろう。
俺はドライヤーの電源を切って、コンセントからプラグを引き抜いた。
「拓巳は小夏さんに会いに行ったんでしょ?どうだったの?」
朝美には、和倉の家に引っ越してすぐの時に写真を見られて、小夏のことを根掘り葉掘り尋ねられている。
『俺の初恋の相手で大事な子。ウサギみたいで可愛いだろ?』
って言ったら、『本当ね』って笑ってた。
彼女が横浜に住んでるってことも話してたから、俺の行き先を聞いて、すぐにピンと来たんだろう。
俺はベッドに背を向けて体育座りしている朝美の後頭部を見下ろしながら苦笑した。
「ああ……引っ越した後だった。でも、お陰で気持ちの整理がついたから良かったよ」
「気持ちの整理?」
「そう。いつまでも未練タラタラで昔を懐かしんでたって無駄だってこと。小夏は小夏で新しい生活を始めてるんだ。俺だけあの場所にしがみついてても無駄なんだよな……」
俺の精一杯の強がりを聞くと、朝美は満足そうに頷いて立ち上がり、ギシッとベッドを軋ませて、俺の隣に腰掛けた。
「可哀想な拓巳……母親だけじゃなくて、とうとう小夏さんにまで捨てられちゃったのね……」
ーー捨てられた?
そうなのか?俺は小夏に捨てられたのか?
違う!小夏はきっと今も俺のことを覚えてるはずだ。
引っ越しだって仕方なく……。
いや、そんなのはただの俺の願望だ。
俺をあの場所で待っているはずだという希望が絶たれたばかりだっていうのに、俺はまだ性懲りもなく夢見てるのか……馬鹿みたいだな。
そんな事をぼんやり考えていたら、隣から朝美にギュッと抱き締められた。
「可哀想な拓巳……大丈夫よ、私が側にいてあげる」
ーーそうか……俺は……可哀想な奴なのか……。
その時急に朝美に押し倒されて、えっ?と思っている間に上から馬乗りになられた。
「うわっ、何?!」
慌てて押し返そうとした俺の手首を掴んでシーツの上に押し付けると、アイツが上から見下ろしてくる。
「拓巳、もう何も考えなくていいの。私は小夏さんと違ってあなたの前からいなくならないし、今すぐに触れる事だって出来るのよ。これからは私があの子の代わりになってあなたを慰めてあげる」
「朝美っ、ヤメロっ!」
そう言って背けた俺の顔を追いかけて、朝美が唇を押し付けて来た。
「大丈夫、この事をお父さんには絶対に言わないから。私と拓巳は共犯なの」
その言葉を聞いて、俺はピタリと動きを止めた。
「私はあなたの共犯者で、小夏さんの身代わり。これからは私が、あなたの女神にでも母親にでも何にだってなってあげる。あなたは私を小夏さんだと思って抱けばいいし、その事で罪悪感なんか持たなくていいの」
そう言いながら、再び顔を近づけて来る。
甘ったるいシャンプーの香りと共に、朝美の髪が頬にパサリと落ちて来た。
その直後に唇が重なり、口の中に舌が入って来た。
俺が顔を少し動かしてナイトテーブルを見上げたら、朝美もそっちを見て、フッと目を細める。
「拓巳、 大好きよ…… 愛してる。初めて見たときからずっと好きだった」
朝美はそう言うと、小夏と俺が並んでいる写真立てに手を伸ばして、パタンと伏せた。
指先に摘んだ花びらを見せ合って笑っている小夏と俺の笑顔が、涙で滲んで消えていく。
アイツと完全に決別するみたいで、胸が張り裂けそうだ。
だけど、 これでいい…… アイツに俺のこんな醜い姿を見られるくらいなら、 心を失ってしまった方がマシだ。 胸が張り裂けて壊れてしまえばいい……。
「……カイも雪の国で、 こうやって心を凍らせていったのかも知れないな」
「えっ、 なに? 」
「…… いや、 いい」
ーー小夏……ごめんな……。
俺は目を閉じて、 朝美の背中に腕を回した。
涙がゆっくり頬を伝って首筋に流れていったとき、『ああ、 心が凍っても、 まだ涙は生暖かいんだな…… 』と思った。
ーー小夏……。
小夏、 お前もゲルダのように俺を見つけてくれないか?
俺はもう…… お前を待つのにも期待するのにも疲れたよ……。
その日から俺は雪の国のカイになって、凍った心のまま、誰も愛さずに生きて行くことを決めた。