35、 母さんの子
「だから穂華、 敏夫と洋子さんにちゃんと頭を下げて謝って…… 」
「どうして私が頭を下げなきゃならないのよ! 」
ーー ああ、 まただ……。
母さんと臼井先生のことが発覚して以来、 母屋の伯父さん達だけじゃなく、 離れの方でも険悪な空気が流れていた。
どうやら伯父さん達から母さんを離れから追い出すよう再三催促されているらしく、 間に挟まれたお祖母ちゃんが困りきっているのだ。
実際月島家のみんなに迷惑をかけているんだ。
床に頭をこすりつけて謝罪しても足りないくらいなのに、 一言謝ることも出来ない人間…… それが俺の母親だった。
それが無理なら家を出てアパートを借りるなりすれば良さそうなものを、 それさえもしない。
老人が1人でのんびり住んでいた離れに親子で転がり込んでおいて、 食費も光熱費も払おうとせず、 それどころか買い物のお金も全部お祖母ちゃんに払わせて、 食事の準備もお祖母ちゃん任せ。
娘時代に戻ったように甘えていられる今の暮らしを捨てるのも嫌、 謝るのも嫌。
自分勝手にも程がある。
そう、 あの人はいつだってそうなんだ。
夢見る乙女、永遠の少女。
足元の定まらない、 フワフワした、 大人になりきれない大人。
それまでにも母さんに呆れたことは何度もあった。
たくさん恨んだし情けなくも思ったけど、心のどこかでは愛情を感じてたし、 こういう人なんだから仕方がない…… って受け入れてしまってもいた。
だけどこの時…… 俺は生まれて初めて、 心からあの人を軽蔑した。
ーー コイツ、 最低だな。
3月になり、 俺は学校を休んだままで終業式の日を迎えた。
母さんはみんなにバレたことで開き直ったのか、 堂々と臼井先生と連絡を取るようになっていたけれど、 どうやら最近になって雲行きが怪しくなってきたらしい。
あからさまに不機嫌な日が増えて、 爪をガジガジ噛みながら、 常にスマホを睨みつけているようになった。
その日も母さんはスマホをジッと見つめて物思いに耽っていたけれど、 急に顔を上げて俺に言った。
「ねえ拓巳、 臼井先生のとこに行こっか」
「…… は? 」
「臼井先生ね、 ここから電車で2時間くらいの村に異動になったの。 今は1人で住んでるから、 母さんと拓巳が行ったら喜んでくれると思うの」
ーー 何言ってんだよ?!
開いた口が塞がらないとはこういう事を言うんだろう。
俺は文字通り口をポカンと開けて、 母さんの顔を黙って見つめた。
「ほら、 敏夫伯父さんもお祖母ちゃんも出てけってうるさいし、 拓巳も学校に行ってないでしょ? だったら…… 」
「いい加減にしろよ! 」
俺が急に叫び出したものだから、 母さんは目を見開いて言葉を途切れさせた。
「誰のせいで学校に行けなくなったと思ってんだよ! もうこんなの嫌だよ! 俺はもう引っ越したくないよ! 伯父さん達に…… 幸夫と光夫に謝れよ! お祖母ちゃんにももう迷惑かけるなよ! 」
ーー 最低だ……。
心の中に溜め込んでいたものが一気に溢れ出した。
男から逃げ、 住んでいた街から逃げて辿り着いた先で、 今度は身内の小言から逃げ、 そしてまた男を追い掛けるって言うのか……。
俺は涙をダラダラ流しながら、 思っていた事を必死で訴えた。
「駄目だよ母さん…… 臼井先生には奥さんが…… 加奈ちゃんがいるんだよ。 子供だっているんだよ。 そんなところに行ったって…… 」
「拓巳…… あんた、 私の息子でいるのを辞める? 」
「えっ…… 」
「私の言うことを聞けないのなら、 あなただけここに残ればいいわ。 私の息子を辞めて、 お祖母ちゃんに面倒を見て貰えばいい。 だけどね、 こんな所にいたって母屋の連中に邪魔者扱いされるだけよ。 あの学校にだって、 今更戻れるの? 」
「でもっ! 」
「拓巳、 あなたは母さんの子よね? お祖母ちゃんだって、 あなただけ1人で残られても困るに決まってるわ。 そうでしょ? 」
「………。」
母さんは黙り込んだ俺の肩に手を置いて、 ニッコリ微笑みかけた。
「拓巳、 一緒に行くわよね? 臼井先生の奥さんは子供を連れて実家に帰ったの。 もうすぐ離婚するのよ。 大丈夫、 私たちは幸せになれるわ」
ーー 駄目だよ母さん、 加奈ちゃんと子供を不幸にしちゃうよ! 俺たちは幸せになんてなれないよ!
母さんはあの日の教室で、 困ったように俺から逸らした先生の目を知らないんだ。
母さん、 先生はきっと、 俺たちを待ってなんかいないよ……。
だけど俺には選択肢も決定権も無くて……。
ただ黙って頷くしかなかった。