25、 思い出のカケラ
「穂華、 お前、 よくも今頃おめおめとこの家に顔を出せたな! 」
地面に倒れ込んだまま頬に手をやっている母さんを見下ろして、『敏夫さん』は唇をわななかせている。
握りしめた両手の拳が、 怒りでプルプルと震えているのが見えた。
「敏夫! せっかく穂華が帰ってきたんだから…… 」
「母さん! コイツのせいで俺たちがどれだけ迷惑を掛けられたのか、 もう忘れたのかっ?! 」
一喝されて、 お祖母ちゃんが黙り込んだ。
「穂華、 お前の恥知らずな行動のせいで、 俺たちは近所のいい笑い者だったんだ! ネイビーに遊ばれた挙げ句、 青い目の子供なんか産んで、 しかも付き合いのある会社の男と不倫して駆け落ちなんて、 正気の沙汰じゃないだろっ! 恥を知れっ! 」
「私はお母さんに会いに来たの! お兄ちゃんに会いに来たわけじゃないわ! 」
「何だって?! お前は……っ! 」
敏夫さんが拳を振り上げて近寄る。
「敏夫! 穂華もっ! 子供がいる前で喧嘩するのはやめてちょうだい! せっかくまた会えたのに…… 」
お祖母ちゃんが泣きながら母さんを庇うと、 敏夫さんは拳を下ろして俺を見た。
「…… 拓巳か」
「…… はい」
俺が頷くと、 彼は自嘲気味に口角を上げて、「やっぱり青い目なんだな…… 当たり前か」と呟いて、 踵を返した。
母屋に向かって歩き出しながら、
「穂華、 お前に話がある。 俺は今からまた会社に戻らなきゃいけないから…… 午後7時に母屋に来てくれ。 飯でも食いながら話そう」
そう言って去って行った。
「穂華、 大丈夫? 敏夫はあなたがいなくなってからいろいろ苦労してるから…… 」
「大丈夫よ」
母さんは自力で立ち上がって、 紺色のワンピースについた土や砂をパンパンと叩きながら、 憎らしげな目で母屋の方を見た。
「…… この家は相変わらずの男尊女卑なのね。 男のくせに、 ギャーギャー喚き散らして馬鹿みたい」
「穂華…… 」
母さんは乱れた前髪を耳に掛けると、 スーツケースをガラガラと引っ張って、 勝手知ったる様子で離れへと歩き出した。
みんなが『離れ』と呼んでいたその家は、 母屋とは目と鼻の先にある、 木造平屋建ての純和風住宅で、 その一角だけが別世界のように静かな佇まいを見せていた。
竹垣で囲まれた庭には白い砂利が敷き詰められ、 その真ん中には、 形の不揃いな飛び石が玄関まで交互に配されている。
その周囲には、 低木と立派な松の木が植えられていた。
飛び石をピョンピョンと飛びながら玄関に向かうと、 その脇に、陶器の青っぽい鉢が置かれているのが目についた。
細い竹筒からチョロチョロと水が注がれているその中を覗き込むと、 フワフワと浮いている水草の周囲を、 3匹の小さな金魚が泳ぎ回っている。
「あっ、 金魚だ! 」
俺が目を輝かせてそう叫ぶと、 お祖母ちゃんが隣に立って、「拓巳くんは金魚が好きなの? 」
そう聞いてきた。
「うん、 大好き! 小夏のお祖母ちゃんちでも金魚を飼ってたんだ。 俺のは『チビたく』って名前の出目金で、 小夏のがココにいるのと同じ和金。 あっ、 でも、 水槽で飼わなくてもいいの? ブクブクの泡が無いと死んじゃうんだよ」
一気に捲し立てると、 事情を知らないお祖母ちゃんはちょっと困った顔をしたけれど、 母さんから、「夏にお友達の家に泊まってた事があって……」と簡単に説明されると、 うんうんと頷いて、 一緒に水槽を覗き込んだ。
「この青い鉢は信楽焼の睡蓮鉢でね、 敏夫の息子たちが夏祭りで金魚を取ってきた時に、 おじいさんが取り寄せた品なのよ」
『シガラキヤキ』とか『スイレンバチ』とかの単語は難しくて良く分からなかったけれど、『夏祭り』という言葉に、 胸がギュッとなった。
小夏と過ごした短い夏の、 淡い思い出が蘇る。
浴衣と甚平で、 手を繋ぎながら登った石段。
和紙が貼られたポイですくった金魚。
金魚が入った透明な袋を手にぶら下げながら、 ゆっくり歩く帰り道。
一緒に袋の中の金魚を見上げて、 ニッコリと微笑み合った……。
こんな所で、 思いがけず思い出のカケラを見つけることが出来た……。
なあ、 小夏。
あの時俺は、 車に乗れば1時間とかからないような距離で、 そうとも知らずに、 お前とは二度と会えないような絶望の中にいたんだ。
ーー 今はもう会えない大好きなあの子。
それでも、 睡蓮鉢で泳ぐ金魚を見たときに、 こんな些細なことでもお前と繋がっていられるような気がして、嬉しいような切ないような気持ちになったんだ。
細い糸を手繰り寄せるように、小さな思い出のカケラをいくつも寄せ集めて…… そうすることで、 どうにかしてお前に辿り着きたいと思っていたのかもな。
だけど、 そんな思い出に浸っていられたのは束の間で……。
その後に俺を待っていたのは、 大人たちの醜い財産争いの訌争と、 罵詈雑言の嵐だった。