22、 別れの夜
あの日のことを思うと、 今でも胸が張り裂けそうに痛くて苦しくて、 思わず両手を心臓のところに当てて、 ギュッと目を閉じるんだ。
何度も後悔して、 何度も諦めて…… 。
考えたって仕方がないのに、『もしも』の未来を考えて、 また苦しくなって……。
だけど、 本当に『もしも』あの時に戻れるとしたら、 俺はあの病室に戻って、 お前の手を引いて連れ出していたかもな。
小学生の俺にそんなこと出来っこないのにさ。
それでも俺は、 9歳の自分がお前の手をしっかり握って、 一緒に笑顔で雪の夜道に駆け出していく姿を、 何度も何度も想像してしまうんだ……。
***
唇を離してからギュッと強く抱きしめて、「行かなきゃ…… 」と呟いた時、 床頭台に置かれている赤い時計は、 もう午後9時を指していた。
看護師さんが巡回に来る時間だ。
「それじゃ小夏、 俺、 行くよ」
俺は一旦立ち上がったけれど、 未練がましくもう一度ベッドに腰掛けて、 小夏をガバッと抱きしめた。
「小夏…… お前、 俺のこと好き? 」
「うん…… 大好きだよ」
「小夏は俺と離れたら寂しい? 」
「もちろん! たっくんと離れたら寂しくて死んじゃうよ! 」
「ハハッ…… お前、 俺と離れたら死んじゃうの?」
小夏の言葉が嬉しくて、 嬉しすぎて、 泣いてしまいそうだったから…… 冗談めかして誤魔化した。
そしたら小夏は真剣に怒りだして、 俺の両肩を掴んでガクガク揺すった。
「冗談でもそんな怖いこと言わないでよ! 絶対にいなくならないで! ずっと一緒にいてよ! いなくなったら本当に死んじゃうからね! 」
「お前…… 俺がいなくなったら本当に死ぬの? 」
「死ぬよ。 ネズミーランドでたっくんが誘拐された時、 心臓が一瞬止まったもん」
ーー そんなことを言うなよ…… せっかく決心したのに、 黙って行くって決めたのに……俺、 自分のことしか考えられなくなる……。
駄目だ…… ダメだ、 だめだ!
絶対に言っちゃ駄目なんだ……!
「…… ハハッ、 心臓が一瞬止まった…… って…… 」
クスクス笑ったフリをして息を呑み込む。
どうにか呼吸を整えてから、 小夏にニカッと白い歯を見せてやると、 ふざけてると思ったのか、 思いっきり叱られて、 そのあと泣かれた。
「笑いごとじゃない! 笑うな! たっくんのバカ! 」
ーー 小夏、 ごめんな。
分かってるんだ…… 小夏が真面目に言ってるんだってこと。
ちゃんと聞いてるよ、 ちゃんと真剣に受け止めてるよ。
お前が俺にくれた言葉ぜんぶ、 記憶に刻みつけてるよ。
「小夏、 ごめんな……。 分かったよ、 離れない。ずっと一緒にいてやるよ。 お前が死んだら幽霊になって呪われそうだからな」
「うん、 一緒にいて。 たっくんが裏切ったら、 幽霊になって出てやる。 一生呪ってやるからね! 」
ーー 小夏…… お前と離れたら死んじゃうのは、 俺の方だよ。
俺を一生呪ってよ。 生き霊にでもなんにでもなって、 会いに来てよ……。
「ハハッ、 怖っ! 分かったよ、 分かったからさ…… 小夏、 笑顔を見せて」
小夏がようやく見せた泣き笑いの顔をジッと見つめて、 じっくりと瞳に写す。
ーー うん、 俺が大好きな女の子の笑顔、 瞳に焼き付けた。
あとは……。
俺はさっき編んだばかりの三つ編みからゴムをスッと外し、 自分の手首に掛けた。
小夏には悪いけど、 これを貰っていくよ。
1つくらい、 小夏を感じられる物を持って行ったっていいだろう?
ーー さあ、 行かなきゃ。 母さんが待っている。
俺はゆっくりドアへと歩いて行き、 扉に手を掛けて、 最後にもう一度だけ振り返った。
小夏はベッドから立ち上がって見送っている。
俺が大好きな、 小さくてウサギみたいな女の子……。
「小夏、 お前は俺のもんだからな! ずっと俺を呪ってろよ! 」
それだけ言い捨てて、 階段へと走った。
行きたくない!
駄目だ、 行かなくちゃ!
ここで立ち止まったら、 もう一歩も動けなくなるって分かっていたから…… 俺は1度も振り返らずに、 階段を駆け下りた。
パタン、 パタン…… パタン。
階段を下りきったところで足を止め、 上からの音に耳を澄ます。
もしかしたら、 小夏が追い掛けて来るんじゃないかと思ったから。
追い掛けて来られたら困るくせに、 追い掛けて来て欲しいと思っている自分がいる。
ーー もしも今、 お前が追いかけて来てくれたら…… 。
早苗さんに一生恨まれたって構わない。 ちゃんと目を見て抱き締めて、 お前にサヨナラを言いたい。
『小夏、 お願いだから追い掛けてきて! 』
だけど、 冷え切った踊り場には物音1つ響いてこなくて……。
「ハハッ、 そうだよな。 アイツは足が痛いんだし、 明日また会えると思ってるんだし…… 」
それでもそれから更に10秒数えて、 もう一度ゆっくりと10秒数えて…… 俺は肩を落として歩き出した。
救急出入り口から外に出ると、 病院から漏れた灯りに照らされて、 白い粉雪がヒラヒラと舞っていた。
病院を出てすぐの道でハザードランプを点滅させていたタクシーに乗り込むと、 母さんが「東京駅まで」と運転手さんに告げた。
ーー そうか、 東京に行くんだ……。
動き出した車窓に手をついて、 外の景色に目を凝らす。
ーー 小夏、 サヨウナラ。
俺のことを忘れないで……恨んでもいいから、 この日のことを、 ずっと覚えていて……。
雪の粒がくっついた窓ガラスの隙間から、 遠ざかっていく病院の建物が見えて、 やがて視界から消えていった。