17、 始まりの合図
「小夏、 待ってるからな。 早く退院してこいよ」
「うん…… 明日には私も帰れると思う」
小夏はベッドに腰掛けたまま、 元気に頷いた。
あの事件から2日後。
一足先に俺の退院が決まって、 小夏を残して家に帰ることになった。
「明日、 会えるよな? 絶対な! 」
「うん。 先生にお願いして絶対に帰る! 」
「この前は約束を破ったけど…… 今度は絶対だぞ、 ほら」
俺が小夏の前に小指を突き出すと、 小夏はニッコリしながら、 そこに自分の小指を絡めてきた。
その時は2人ともそう信じきっていたし、 これでようやく平和な日常が戻ってくるんだと、 期待と喜びで満ち溢れていたんだ……。
病院の玄関を出てタクシーに乗り込む時に、 何故だか小夏が見送ってくれているような気がした。
パッと振り返って5階のあの病室を探す。
ーー 右から 1、2、3、…… あの部屋かな?
見当をつけて、 それらしい病室を見上げたら、 窓のところにチラリと人影が見えた。
太陽の光がキラキラ反射していてハッキリとは見えなかったけれど、 たぶんアレは小夏に違いない。
俺は精一杯右手を伸ばして、 ブンブンと大きく手を振ってから、 タクシーに乗り込んだ。
アパートの駐車場に着くと、 車の音を聞きつけたのか、 早苗さんが表に出てきてタクシーに近寄ってきた。
手を差し出して、 俺がタクシーから出るのを手伝ってくれて、 母さんと両脇から体を支えて歩いてくれた。
「一緒に中に入ってもいい? 手伝うわ」
「……ええ、 ありがとう」
母さんはまだ気まずそうにしていたけれど、 2人の間からはもう、 以前のような険悪な空気は感じられなかった。
アパートの近くまで来たら、 駐車場脇に寄せられた雪の中に、 チラリと青いものが見えた。
「あっ、 母さん、 ちょっと止まって! 」
俺の視線に気がついて、 早苗さんがそちらに歩いて行く。
ザッと雪をどけて、 青い物体を引っ張り出すと、 思った通り、 それは『雪の女王』の絵本だった。
「ちょっと濡れちゃってるけど、 中は無事みたいよ。 雪の中に埋もれてたのが逆に良かったのね」
早苗さんが表面の雪をパッパッと払って、 俺に手渡してくれた。
ーー 良かった……。
あの日、 小夏が雪の中に立ちながら、 しっかりと胸に抱いていた大事な絵本。
小夏が退院してきたら、 一緒に声を出して読もう。
大丈夫、 悪魔はもういない……。
アパートは2日前に飛び出したあの時のままで、 部屋中ビールや生ゴミの臭いがプンプンしてるし、 割れたコップの破片はそのまま飛び散ってるしで、 正直、 早苗さんに見られるのは恥ずかしかった。
早苗さんも驚いているに違いないのに、 それを表情には出さず、 俺を奥の寝室に休ませると、 テキパキと部屋の片付けを始めた。
俺は特に眠くなかったので、 布団にうつ伏せて枕に顎を乗せると、 早苗さんと母さんの会話をぼんやり聞いていた。
「向こうの弁護士から穂華さんにも連絡があった? 」
「えっ? ううん…… 弁護士は何って? 」
「示談のお願い。 事件のことを根掘り葉掘り聞かれれば娘さんも苦しむし、 長引かせるのはお互いに良くないでしょう?……って」
「私には連絡なんて来てないわ! 」
「穂華さんは事件の当事者でもあるから、 また違う方向でアプローチがあるのかも知れないわ」
「当事者…… 私も警察に捕まるの? 」
「穂華さんが怪我をさせたわけじゃないからそれは無いと思うけど…… あの男がどう言うか…… 」
2人のやりとりを聞いていて、 一気に不安が押し寄せてきた。
心臓がバクバクする。
ーー こんなにすぐに弁護士が動くのか…… 示談ってことは、 『うさぎ事件』の時と同じようにお金で済ませるってことなのか?
「そんなの駄目だよ! 許しちゃったらアイツが牢屋から出てくるんだろ? 」
俺が聞いてるとは思っていなかったのか、 急に大人の会話に割り込んできた俺を、 2人してギョッとした顔で振り向いた。
「アイツが出てきたら、 また繰り返しじゃん! 絶対に許しちゃ駄目だよ! 」
「拓巳、 大人の話に入ってこないで! 」
「だって本当のことだろっ?! 小夏はアイツのせいで怪我をしたんだ! 」
「拓巳くん…… 」
早苗さんが困惑顔で俺を見つめた。
「……そうね、 拓巳くんが言うように、 あんな事を繰り返しちゃいけないわ。 どうするのが一番いいのか、 ゆっくり考えましょうね」
ーー ゆっくり考えてていいのかよっ!
そう思ったけど、 口には出せなかった。
「あっ、 お腹が空いてない? 一緒に食べようと思っておでんを用意してたの。 ちょっと準備してくるから待っててね」
場の空気を和ませるようにそう言い残して、 早苗さんは自分の部屋へと帰って行った。
早苗さんがいなくなった途端、 部屋には沈黙が訪れて、 気まずい空気が漂った。
そう言えば、 あの事件以来、 母さんとゆっくり話していなかった。
いや、 あの男が家に来てから、 ちゃんと向き合って親子らしい会話を交わしてなんかいなかった。
「拓巳、 私は…… 」
母さんが何かを言おうとしたその時、 ダイニングテーブルに置かれていた母さんのスマホが鳴った。
その電話が、 俺たちの未来を大きく変える逃亡劇の、 始まりの合図だった。