12、 幸福な瞬間
夏休みに入ってすぐに、 隣の家から小夏の気配が消えた。
親戚の家にでも行っているのかな…… なんて思っていたら、 それが当たっていたみたいで、 ある日トイレを借りに行った時、 早苗さんに、 一緒に名古屋に行かないかと誘われた。
そこで小夏はお祖母さんと過ごしていると言う。
「そりゃあ、 行けたら嬉しいけど…… 」
自分ちの方の壁をチラリと見ながら呟いたら、 早苗さんが意外な事を言った。
「大丈夫、 穂華さんには許可をもらってるから」
どうやって話をつけたのかは知らないけれど、 早苗さんが母さんを上手く説得してくれたらしい。
顔をパアッと輝かせた俺を見て、 早苗さんは声を潜めながら、 念を押した。
「いい? 拓巳くん。 当日、 私が迎えに行くまで、 この事はあの男にバレないようにしてね。 家では絶対に話題にしないこと。 こっそり荷造りをして、 リュックはどこかに隠しておきなさい。 荷物は少ない方がいいわ。 足りない分は向こうで買えばいいから」
アイツにバレて、 母さんの気が変わるのを恐れたんだろう。
だから俺は、 嬉しくてワクワクする反面、 アイツにバレて妨害されないよう、 細心の注意を払いながら、 その日を迎えた。
8月に入ってすぐの週末、 玄関のチャイムが鳴った途端、 俺はリュックを手に立ち上がった。
後ろでテレビを見ていたアイツがどんな顔をしていたのかは知らない。
後ろから肩を掴まれたら終わりだと思ったから、 心臓をバクバクさせながら、 靴に足先だけ突っ込んで、 勢いよく外に出た。
早苗さんは俺を見ると背中を抱きかかえるようにして速足で歩き出し、 既にエンジンのかけてあった車のドアを開けて、 助手席に俺を座らせた。
青いリュックを俺から受け取って後部座席に置くと、「やったね!」と言いながらお互いの手をパチンと合わせてようやく笑顔を見せ、 車を発進させた。
学校のない夏休みは地獄の日々を覚悟していたから、 突然の名古屋行きは、 まさしく地獄から天国だった。
名古屋には行ったことが無かったから、 どんな場所なのかも楽しみだったし、 アイツのいない場所で恐怖に怯えず過ごせるというのも嬉しかった。
そして何より…… 早く小夏に会いたいと思った。
小夏のお祖母さんの家は、 下町にある古い日本家屋で、 ガラリと横に開ける磨りガラスの引き戸が新鮮だった。
玄関から早苗さんが呼んでも小夏は出てこなくて、 俺は早苗さんに言われた通り、 上がってすぐにある左手の和室に入って行った。
畳の匂いのする部屋に足を踏み入れると、 見慣れた小さな背中が縁側に腰掛けて、 ぼんやりと空を見上げている。
その姿を見た途端、 胸に熱いものが込み上げてきて、大声で泣き出しそうになった。
俺は一旦足を止めてゆっくり呼吸を整えると、 会いたくて仕方なかったその子の名を呼ぶ。
「小夏」
自分でもビックリするくらい声が震えていたけれど、 ちゃんと届いていたようだ。
俺の声を聞いた途端、 小夏の肩がビクッと跳ね上がり、 その直後に小刻みに震え出した。
ギシッと音をさせながら隣にしゃがみ込んだら、 案の定その顔は涙でグシャグシャになっていて……。
「小夏、 元気だった? 」
顔を覗き込んだら、 泣き笑いの顔で「うん、 うん」と頷く。
俺も並んで縁側に腰掛けると、 小夏は信じられないという顔をして、 横からまじまじと見つめてきた。
「たっくん…… 」
「うん」
「…… たっくん! 」
「……うん」
俺が知ってるのより少し痩せて、 細っそりと顎が尖っているその姿を見て、 早苗さんが言ってた通り、 あまり食べていないんだろうな……と思った。
ーー 俺のためにこんなになって……。
そう思うと愛しさが込み上げてきた。
指先で涙をスッと拭ったら、 顔をクシャッとさせて、 大声で「うわぁ〜ん!」と泣き出した。
あまりにも可愛かったから「ハハハッ」と笑ったら、 怒って更に泣き出した。
胸がブワッと何かでいっぱいになって、 途端に俺の目にも涙が溢れてきた。
泣き顔を見られたくなくて、 小夏をギュッと抱き寄せたら、 細い腕で必死にしがみついてきた。
『幸福』という言葉は、 この瞬間のためにあるんだと思った。