悲劇的ひとりごと
ここのところは文章がてんでばらばら頭の中で散ってしまって、うまくまとまらない。拾い上げてたばねても、どうやらたばねる紐のほうが切れているらしく、数秒後にはまた元通りになっている。
元々月の半分は悲観的にぼんやりと夢見心地な毎日を送っている人間だから、ああまた頭がオーバーヒートして排熱しているんだなあというほかに感慨もなく、抜け出す術もないのでそのままトラジディックな夢を見ている。
今は仕事にもそのほかの諸々にも、わたしを脅かすものなどないはずで、わたしの脳はよほど暇なのだろうか、瑣末な悩みを大きくするのを仕事にしている。
幸い大きな怪我も病気もなくやってきた身体だけれど、環境と温度の変化には滅法よわく、ここ数年は季節の変わり目がずっと続いているような日本だから、呼吸をするだけで体力を持っていかれるような毎日である。
でもわたしをほんとうに悩ませているのは、そういう自堕落が染み込んだ自分自身の身体でも、ほかの誰かとその身体を交換できないという絶望でもない。
むしろほかの誰かと人生そのものを交換したとして、わたしの悩みは尽きることがないだろうという諦念こそが根っこのところ。どれだけ艱難を排したところで、この世にはびこる四苦八苦を一掃できるわけもなく、なるほどこれは解脱こそ救われる唯一の道だろうと、世界史でかじっただけの仏教に理解を示す次第。
だって、ツイッターなんか見ていると(インスタグラムじゃないのが味噌か。ところでこのふたつのSNSをとりあげた本文は、いつまでリアルタイムに共感をもって読めるのでしょうね)、みんな何かしらに苦しんでもがいて嘆いている。
もちろん、苦しい苦しいと言っているわたしにも、日常のささやかな幸せというものはあるんだけど、身体のしんどいときは目のピントがそちらに合わないから、これはもうあたたかい飲み物でも飲んで、毛布に包まって思考をやめるくらいしか、逃れる手立てがないのである。
でないと、延々と自分のいたらないところを並べては、そこになんとか悩みの原因を見出そうとする羽目になるのだ。
いやどうにも生きづらいなあと、抽象的な文字を書き連ねたところで、今日はもう布団に入ることにします。