仮面の憑依
人は皆、人格の仮面を使い分けるものだといいますね。わたしはこの手の話には詳しくないのだけれども、この説の言いたいことは実感としてよくわかっていて、たとえば両親が知っている娘のわたし、姉が知っている妹のわたし、友人としてのわたし、仕事の同僚としてのわたしは全部違うように見えると思う。
もちろん根っこにいるわたしはひとつで、箱の中に納まっている記憶・知識もまったく同じ、ただ状況と相手によって、見せるものが違っているだけ。ただこれはあくまで、仮面の外側からわたしを見た場合の話で、仮面の内側――つまりわたしの内面では、まったく別の内輪もめが繰り広げられている。
ところで話は変わるけれども、能面や、祭りで扱う鬼の面には、つけたものをトランス状態にする効果があるのだとか。これは大学の民俗学の先生の受け売りで、たぶん「一説によると」というところもよるのだろう。三河の花祭りを例にとりあげてくださったのをよく覚えている、あの祭りは映像越しにも異界のごとく空気が違うように思えた。
この華々しい祭りよりかはずっとずっと低次元のものでしょうけれども、面からの憑依というのが、わたしが人格という仮面をかぶっているときにも起きているような心持になるのですね。鬼面のように視界が変わるわけでなく、見ているもの、聞こえているものだって同じはずなのに、あとから考えてみれば不思議なものだが、もともとあった「わたし」というものと、体裁をととのえるための仮面とが一体になってしまったような、それでその場だけの別人であるわたしができあがってしまうような。
たぶん、むずかしく言葉で考えるから大仰になってしまうだけで、これはむしろ正常な心の動きであるのでしょう。自分になじまない仮面のほうが、たとえばいわゆる離人感というものを生んでしまって、精神的には負担なのではないかな。
わたしはたとえば、職場では鈍感でポジティブなわたしを、家族の前では頑固で心配性なわたしを、ほんとうに自分はそういう人間なんだと思いこむことによって、その場所に適合させているにすぎないのかもしれない。
ただ、そういう客観的な納得と、そんな自分に対する好悪はべつの問題で、いやそれとこれとは別だと言い切るわたしがまったくもって面倒くさい。
なにが気に入らないのか? というところは決まっていて、きっとわたしは自分自身に何か代えがたい本質があるのだろうと信じたくて、容易に仮面に書き換えられてしまう自分を許しがたいのだろうと思う。
もちろん冷静に考えてみれば、わたしの内側に詰まっているのは、スパイスでもお砂糖でもなく、腥い血潮と内臓くらいのもので、ましてや本質なんていう理想が、わたしの形質のなかに収まっているものとは思い難い。むしろかぶっている仮面、まったくわたしとは別の、無機質な建前であると認識しているものこそ、わたしがわたしを切り貼りして作り上げた、わたしの本質の一部分なのかもしれない。
そうなるともう、完璧なわたしそのものなんていうのはどこにもいなくて、好きも嫌いも考える余地なんてないのかも。たったひとり家にこもっているわたし、仮面を脱いだわたしと思っているときの自分自身ですら、仮面の内側のただの血肉を覆い隠すために、「ひとりで過ごすとき用の仮面」というものを持っているのかもしれない。
だって身体のほうですら、鏡の前にいるときの自分を本物と思わない方がいいくらいだし。無意識に映りのよい角度なんか選んでしまって、しかも鏡って左右さかさまなものだから、不意に取られた写真なんか見ると度肝を抜かれることがあるのですよね。ああわたしってこんな顔しているんだ……。それと一緒で、心の方も無意識的に、自分に対してプロテクトをかけておくことがあるのかな。そうだとしたら、プロテクト用の仮面が必要になるだろう。
そうなると、もし仮面に関係ない自分が見えるとしたら、きっと不意の一瞬、他人にだけ見えるものなのだろうか。たとえばわたしが自分のほんとうの顔を知らぬまま死ぬように、思春期にずっと追い求めてきた、いまでもたまに考える自分の本質というものは、自分には見えないまま一生が終わるのかもしれない。