ノー・モア・使い捨て
なんとか日常というものをかたちにしようと試みはじめたのはいいけれども、結局何をするでもなく、物が散らばった部屋の片隅でそっと息を潜めています。やはり人間、日頃訓練していないことを急にするのはできないらしい。
たとえば料理をしたあとはすぐ洗い物をしようとか、洗濯は少なくとも二日に一度はとか、そういうことを心に決めても、わたしは生来のずぼらさで自分との約束を次の日には違えてしまう。そういう心根が、文章にも表れているのだった。いや、表れてないからこそ、こうしてベッドの上でひとり反省する羽目になるのだけれども。
でも、表に出さないからと言って何も考えていないわけでなく、思考はその場であいまいな文字の塊を作り出し、わたしはそれを脳内で読み捨てているといった塩梅。
昔から、ふだん何も考えずに生きている質だけれども、たまに、そう人生の四分の一くらいは、壊れたラジオのようなナレーションというか、文章というか、と共に過ごしている。わたしの頭の中でしか聞こえないナレーションである。頭の中で読み捨てるための文章をつくるのを、いつから始めたのかはわからないけれども、それをやるのは大体、身の回りの活字に飽きたときだった。
わたしは本や物語というよりは文字そのものが好きな質で、内容は平易で短ければなおのこと、疲れた頭に染み渡ってよい。疲れたときに長湯をするとのぼせやすいし、それといっしょで、疲れたときに超大作のベストセラー小説なんか読むと、こう、頭のCPU占有率が100パーセントで高止まりしてしまって、ほかのことが何にもできず、文字通りスリープモードに突入してしまうのです。
だからといって、風呂に入らず済むわけがないのと同様、活字を読むことはやめられないのだった。日常を生き抜くためのサプリメントみたいなもの。
そんなわけで、古書店の10円文庫とかでは代替の利かない、短くたいした意味のない文章を、普段どこから手に入れているかというと、そりゃあ専らインターネットの短い書き込みを拾ってくるのだ。いい時代になったもので、幼少期なんかよりたくさん、人の書いた文字が手軽に読めるようになった。
とはいえ、わたしが目についたところから拾ってくる文章は、サーフのルートが同じなので段々似通ってくるもので、そのうちに飽き、電車の中吊り広告を眺めては飽き、たまに本なども読み、でも最後には必ず、自分の脳の中で延々と文を垂れ流している。
別に、その生活排水みたいな文章について、「書けばいいのに、もったいない」と思ったことはなかったけれど(どうせいつかまた同じような文章を垂れ流すのだから)、今となってはアウトプットすることが目的なのだから、そういう文章を書き留めておけば一助になりそうなものなんだよな。
結局、皿洗いも洗濯も、文章を綴ることも、わたしの後回し癖や「どうせまたやるのだから」と繰り返しを嫌う癖が、さらに面倒を積み重ねて、ハードルを高くしているのだと思う。
それが分かっているからといっても、結局明日のわたしは今日のわたしを裏切りそうなのが怖いところだ。