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エッセイによせて

 エッセイとは、宝箱であろうと思う。宝箱と言っても、べつに大粒のルビーやらたくさんの金貨が入っているというわけでもなく、外観はお菓子のかわいい缶で、中身はせいぜいきれいに磨いたどんぐりや砂場の石英、それとゲームセンターで手に入れた、何に使うかもわからないキラキラ。

 それを他人に見せてもらう瞬間が好きだ。いったいどんなものを大切にしてきたのか、ひとつひとつ手にとって、ためつすがめつひっくり返す時間の穏やかさ。

 人生五十年……と言われた時代であればわたしももう折り返し地点だ。そのくらい生きてようやく、わたしも物心がついたと見えて、他人への穏やかな興味というものが湧いてきたらしい。


 そんなこともあって、いっぽう自分が持っている空き缶を見てみれば、蓋がすっかり錆びついてしまっていて、その中に何を入れているのか自分であってもわからない。

 いままで生きる縁にしてきたものといえば、きれいでファンタスティックな空想の世界だったのだから、当たり前といえば当たり前であろうな、といったところで、別段落ち込むも落ち込まないもない。


 ただ、最近のわたしはすっかり地に足着いた暮らしというもの、現実の自分とはこういうものであろうという自覚、が自分にないのに疲れてしまって、他人の宝箱の中身が羨ましいばかりで、これはあんまり空想の世界にうつつをぬかしては、そのまま空へ飛びたってしまいそうな気配がする。


 思えばノートに空想を書き綴るかたわらで、日記という日記も書いたことのない人間だった。小学校に入った年、夏休みの一行日記には毎日「暑い」とだけ書き、夏休みが終わろうというころに母に見つかった。情けなさと呆れがないまぜになった表情で絶句した母の顔は二十年経っても忘れない。泣きながら、毎日「晴れ」ということにされたフィクションの日記を書きあげました。

 ともかく、他人どころか自分にも興味のない人間だったのだろう。わたしの頭の中には、わたしよりも面白いものがいっぱい詰まっていたのだ。

 そんなわけで、わたしは二十五にもなって、ちゃんと足元を見て、路傍の石を拾い上げて磨き上げる仕事の練習をしなければ、なんだかにっちもさっちもいかない人生になってきてしまったのだった。


 べつに、人生最後まで全力疾走で走り続けられるのなら、もしくはあさっての方向を見ながら器用に歩けるなら、宝物の蒐集なんぞしなくてもいいんだろうけど、どうやらそんな体力もなさそうだからなあ。

 だから、とりあえずはここに、宝物なんだかガラクタなんだかわからないものを、片っ端から詰め込むことにしたのです。

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