三匹目 オオカミくんと狩神の一族
この街――佐張市の市街地から少し外れた住宅街に、だだっ広い日本屋敷が建っている。
そこが狩神一族の巣であり、つまり俺の家だ。なんでも江戸時代後期から続く武家屋敷らしい。当時から数を減らしていたニホンオオカミがキツネかタヌキだかに人化の術を教わり、人間社会に溶け込んで大名に認められるほどの成功を収めたって聞いたな。
おかげで今も街の政治に口出しできるほどの有力者になっている。俺の両親は一族が代々経営してきたでかい総合商社を纏めているし、爺さんなんて親父に会社を任せた後も頻繁に市長辺りから相談を受けてるみたいだしな。
「おかえりなさいやせ、若」
「「「おかえりなさいやせ!」」」
門を抜けると、懐中電灯を片手に警備していた黒い和服の強面たちが俺に向かって低頭してきた。こいつらは狩神一族の分家の連中だ。当然、ほとんどがニホンオオカミまたは人間との混血になる。今の時代に宗家だ分家だなんて古臭い考え方だと思うが、宗主からして化石クラスの古い人間、もといオオカミだからなぁ。しばらくは変わらないだろう。
「若、今日はどこまで行かれたので?」
「あまり夜遊びが過ぎるとまた補導されやすぜ?」
「ん? そんなに慌ててどうしたんですかい? 若?」
警備担当の武闘派な奴らはだいたいガタイがよくて、体のあちこちに古傷があったり刺青を掘ったりしている。そんな物騒な格好してるからヤクザなんて言われてるんだよ。まあ、一般人を寄せつけないためにわざとそういう雰囲気を出しているらしいけど。
ちなみに『若』とは宗家の跡取りってことになっている俺のことだ。家を継ぐつもりなんてないから正直鬱陶しくもあるが、今は邪険にする余裕すらない。
情けなく女の子から逃げてきた俺は返事もせずに駆け抜け、自宅である宗家の母屋へと飛び込んだ。
玄関の扉を閉めて、ようやく安堵する。
「な、なんだったんだ、あいつは……」
乱れた息を整えて思ったことを吐き捨てる。赤ヶ崎愛唯。オオカミ化した俺を見てビビるどころか喜んでやがったな。しかも謎の力で〝おすわり〟だの〝お手〟だのを強制されて……屈辱だが、それ以上に得体の知れなさに対する恐怖の方が勝っていた。
それに『相棒になれ』とか言っていたな。もうわけがわからん。
「……他人に見られたのは、二回目か」
俺が初めてオオカミ化したのは、小学校三年生の時だ。
『人間に我らの正体を知られてはならない。知られてもよいのは心から信頼できる者だけだ。特に狼太、お主は不用意に女に近づいてはならん』
俺は物心ついた時から爺さんにそう言われ続けてきた。爺さんは狩神一族の四代目宗主であり、人間に化けた純血のニホンオオカミだ。でも、俺は違う。それまで普通の人間として生活してきた。オオカミになったことなどなかった。だから、なんの問題もないはずだと聞き流していた。
だが、あの日。あの時。
近所の山の中で出会い、そして助けることになった少女。
当時、恋愛の『れ』の字も知らないクソガキだった俺が初めて異性として認識した相手。
彼女を押し倒す形になり、俺は抵抗もできずその身をオオカミに変じてしまったんだ。その時は半人半狼の中途半端な姿じゃなく、完全なオオカミの姿だった。
ショックだったよ。
人間だと信じて疑わなかった自分がオオカミになったことへの絶望。オオカミ化する原因となった少女を怖がらせてしまったのではという不安。そして周囲の人間たちに追い立てられた恐怖。幼い心にトラウマを刻むには過剰すぎる経験だった。
おかげで記憶が曖昧になって当時のことはあまり覚えてないんだが……それ以来、爺さんの言葉を痛いほど理解した。
俺も男だ。無垢な子供の頃はよかったが、一度異性を意識してしまうともう戻れない。小学校高学年、中学校と上がって何度もオオカミ化したことはある。回を重ねるごとに抵抗力が増していったのか、最初は完全にオオカミだったのに、今では中途半端な半人半狼にしか変身できなくなった。それはそれで怪物にしか見えないからけっこうつらい。
幸いにも、間違ってオオカミ化しても上手くやり過ごすことはできていた。人付き合いを極力しないようにしていたからな。
でもな、今回の状況は最悪なんだよ。
「赤ヶ崎愛唯。完全に知られちまったよな」
なにせ目の前でオオカミに変身するところを見られちまったんだ。できればこれ以上関わりたくないが、相手はクラスメイトだからな。嫌でも顔を合わせてしまう。
どうしたものかと悩んでいると、居間の方からたたたっと誰かが駆け寄ってきた。
「おかえり、兄貴。なに玄関で息切らして突っ立ってんの?」
妹の狩神弥生だ。コリー犬の尻尾みたく後ろで結った明るい茶髪。Tシャツの上にキャミソール、下はホットパンツというラフな格好をしているな。中学二年生としては平均的な身長であり、一族特有の吊り上がった両目が訝しそうに俺を見上げてくる。
それでも俺と違って愛嬌のある顔は、堅物の爺さんが溺愛するくらい可愛らしかった。
いや、そんなことより兄として注意せねばならんことがあるな。
「弥生、また耳と尻尾が出てるぞ」
妹の頭に三角形の耳がひょこっと飛び出しており、ホットパンツの後ろ側から飛び出た尻尾がゆさゆさと左右に揺れていたんだ。まったくお行儀が悪い。ケモ耳に尻尾とか、そっち方向に理解のある人間が見たら泣いて喜びそうな姿だぞ。
「別にいいでしょ。家の中なんだし。あたしはこの方が楽なの。お爺ちゃんなんて家じゃずっとオオカミの姿してるじゃん」
弥生は悪びれもせず頭の後ろで手を組んだ。俺がオオカミ人間の姿を見たくないんだよ。とはいえ何度注意しても聞かないんだよな。反抗期かな?
「兄貴こそ、いい加減制御できるようになった方がいいんじゃない?」
「……簡単に言うなよ」
弥生は俺と違ってオオカミ化にトラウマがないからな。ある程度は自分の意思で変化できるんだ。それでも過剰に驚いたり感情が高ぶったりすると抑えられないみたいだが。
「ま、それこそ兄貴の勝手かぁ。――ん」
「ん?」
弥生がおもむろに手を差し出して来たので、俺は意味がわからず眉を顰めた。
「ポテチ」
「あー」
もちろん忘れてなどいない。覚悟はできているさ。
「悪い、買い忘れた」
「はあ!? あれだけ念押したのになんで忘れるかな!? 今から借りてきた映画見るつもりだったのにポテチとコーラがないって最悪じゃん!?」
「待て、コーラは聞いてない」
弥生は尻尾の毛を逆立たせて威嚇するように犬歯を剥いた。本当は逃げる時に落としたのだが、それをそのまま正直に言っても許されるはずがない。信じてもくれないだろうな。寧ろ女の子にビビッて逃げたことに失笑されてしまう。
「自分で行ってこいよ。コンビニくらい」
「女の子に夜道を歩かせる気?」
「危ない連中はさっき追い払ってきたからたぶん大丈夫だ。不安だったら警備の誰かを連れて行けばいいだろ」
まあ、弥生は夜道を一人で歩く程度で怖がるような可愛い神経してないからな。さっきの不良が絡んできたとしても返り討ちくらい普通にしそう。
「もういいよ。面倒臭いし。買い置きで我慢する」
「買い置きあんのかよ!」
「新作が食べたかったの! エビマヨ味だよエビマヨ味! 絶対美味しいでしょ!」
弥生はジャンクな菓子類には目がないからな。新たなる味の世界を開拓できなかった怒りに地団駄を踏み始めたぞ。夜にそんなもん食ったら太る……なんて口がオオカミ化しても言えそうにない勢いだった。
と、なにかを思い出したように弥生は地団駄をやめて俺に視線を戻した。
「そうだ。ねえ兄貴、週末に有名なサーカスが来るんだって。お詫びに連れてってよ」
「サーカスだぁ?」
この街にサーカスが来るなんていつ以来だったか。確か小さい頃に一回だけあって、その時も弥生が両親にせがんで俺も一緒に連れて行ってもらった記憶がある。それはそれとしてチケットって何千円もするんだろ? ポテチ一つがずいぶんと高くなったもんだ。
「え? なに? 一緒に行く友達とかいねえの?」
「兄貴に友達云々を言われたくないんだけど」
ごもっともです。
「友達誘っていいなら誘うけど、全部兄貴が払ってよ?」
「それはマジやめて!? 俺の財布が死ぬ!?」
弥生は俺の妹とは思えないくらい人当りがいいから、学年全部オトモダチですとか言い出しそうで怖い。
「……わかったよ。気が向いたらな」
「あーっ! それ絶対行かないやつ!」
俺はやっとのことで靴を脱いで家に上がり、プンスカ怒る弥生の横を気だるげに通り過ぎて二階にある自室へと向かった。妹の頼みなら聞いてやりたい気持ちもあるが、特にアルバイトもしていない高校生は常に財政難なのだ。家が金持ちでも俺が好きに使えるのは月の小遣い一万円だけだからな。
「……兄貴、外でなんかあったの?」
疲れた足取りで階段を上がっていると、ちょっと心配そうな口調になった弥生が背中に問いかけてきた。
「いや、なんでもない」
振り返らずにそう返す。話したところで内容は非現実的だし、俺の細やかなプライドを守るためにも黙っておくことにした。