二匹目 オオカミくんと赤毛少女
「待ってください!」
踵を返して颯爽と立ち去るつもりだった俺だが、赤毛少女がパーカーの背中をガッツリ掴んできた。
「ぬあっ!?」
「ひゃっ!?」
軽いとはいえ人間一人の全体重を乗せた全力の不意打ちに、俺はバランスを崩して後ろ向きに倒れてしまった。当然、俺を掴んでいた赤毛少女も巻き込んでしまう形だ。
このままじゃ俺の体で赤毛少女を押し潰してしまう。そう思ってなんとか身を捻ったのだが、それが悪かった。
ふにっと。
俺の右手に小さくて柔らかい、それでいて確かな弾力のある気持ちのいい感触が伝わってきた。
ふむ、これはアレだな。頭に『お』がついて『い』で終わるやつだ。なんかふわっとイチゴミントみたいな甘い香りも漂って……ふう。
や、やっべー。
「あわ……あわわわわわ……」
かぁああああああっ。地面に仰向けに横たわる赤毛少女の顔がトマトのように真っ赤に染まっていく。カーディガンは乱れ、スカートも際どいラインまで捲れて白い太腿が露わになっているな。その小振りな胸を俺の右手がむにむにっと掴んでいるもんだから、うん、これはもう言い逃れできないくらいこんばんはポリスメン。
それにしてもやーらかい――じゃなくて! そんなこと考えている場合じゃないぞ。
「すまんっ!?」
慌てて飛び退いた俺だったが……まずい、意識してしまった。
「くそっ、見るな! さっさと消えろ!」
体が熱い。全身の血が沸騰してるみたいだ。やめろ! 収まれ! 俺はこんなところであの姿になる気なんてないんだ!
体中がムズムズしてきた。ダメだ。これはもう止められない。
変化が起こる。
人間の耳が消え、代わりにイヌ科の耳が頭からぴょこんと飛び出した。ふさっとした黄褐色の毛が溢れて皮膚を覆い隠す。顎が突き出すように長くなる。鼻の横に長い髭が生える。口には牙が並ぶ。手を見ると人間らしい五指こそそのままだが、肉球があり、爪も鋭く伸びていた。
「えっ? あっ……」
赤毛少女が変身した俺を見て口をパクパクさせているな。驚いて当然だ。目の前で人間がオオカミになっちまったんだからな。それも完全な獣の姿じゃなくて、狼男みたいな人と獣が混ざったような姿だ。
半人半狼。
俺には四分の一だけオオカミの血が流れている。その血が呼び覚まされるとこうして変身してしまうんだ。変身のきっかけはもはや説明不要だろうが――性的な興奮だ。
ちんちくりんでも同い年の女の子だぞ。俺も男だ。あんなことになったらいくら気をつけてもそりゃあオオカミになっちまうよ。
「オオ……カミ……さん? お、オオカミさんです!」
「いや、これは違っ」
まずい。まだ他には誰にも見られていないが、悲鳴を上げられたら一巻の終わりだ。コスプレ早着替えとかって言ったら誤魔化せるかな? 誤魔化せないよね。ですよね。
「やっとオオカミさんになってくれる人を見つけました! この日のためにわたしは猛獣使いになったのです!」
「は?」
赤毛少女はなんか目をキラッキラさせていた。陽光を反射して煌く大海原のような青い瞳だった。
ていうか、思っていた反応と違うんだけど! 怯えなんて一切なくて、寧ろ長年探し求めていた宝物でも発掘したような歓喜に満ち溢れているんだけど!
「その黄褐色の体毛! 背に曲がって先が丸い尻尾! 短めの耳! ニホンオオカミさんの特徴です! 脊椎動物亜門哺乳類綱ネコ目イヌ科イヌ属に属するもう絶滅したとされる種です。最後に確認されたのは一九〇五年の奈良県で絶滅原因は狂犬病や害獣駆除だと言われています。あ、ニホンオオカミさんという名前は明治時代につけられたものでして一部地域では信仰の対象になっていますね。ヤマイヌさんより体が大きいですし畑を荒らすシカさんやイノシシさんを食べてくれるから神聖視されていたみたいです。となるともふる前に拝むべきでしょうか? そういえば同じ絶滅種のエゾオオカミさんとは別亜種らしいですがエゾオオカミさんがハイイロオオカミさんの別亜種なのに対してニホンオオカミさんはハイイロオオカミさんの亜種なのか別種なのかは意見が割れているみたいでわたしは別種だったら夢があっていいなぁと個人的に思っています! もう絶滅したと知った時は泣いちゃうくらい残念だったのですがお母様の言う通り男の人がオオカミさんだったのですね! やっと見つけました! ちょっと変身が中途半端ですが大丈夫ですわたしはどんなオオカミさんでも受け入れられます! うぇへへ♪ えへへ♪」
「長い長い!? どうしたいきなり!?」
興奮しているのか、ペラペラとニホンオオカミについての蘊蓄を語り倒す赤毛少女。その顔は胸を触られた恥ずかしさとは別の意味で朱色に上気していた。心なしか息も荒いぞ。胸の前で両手を翳して指をわきわきしながら一歩一歩近づいてくる。
「ヘンタイか!? お前実はヘンタイだったのか!?」
「ヘンタイさんとは失礼ですね!?」
赤毛少女は眉を吊り上げてムッとすると、わきわきしていた右手で俺を指差し――
「とりあえずオオカミさん、そこに〝おすわり〟してください」
まるで飼い犬を躾けるような口調で俺に命令してきた。
馬鹿か。俺は犬じゃなくてオオカミだぞ。それ以前に人間でもあるんだ。そんなペットみたいに言うこと聞いてやるわけ――
「なっ!?」
気がついた時、俺の体は勝手にヤンキー座りをしていた。
「むむ、可愛くない〝おすわり〟ですね。じゃあ、次は〝お手〟です」
瞬間、電流が奔ったような感覚に襲われた。赤毛少女が差し出した掌に、俺の体はやはり勝手に動いて手を乗せてしまった。まるで意識から切り離されたように……いや、そうじゃない。『赤毛少女の命令に従わなければならない』と思っている俺も存在する。
なんだ?
なんなんだ、これは?
「肉球ふにふに……うへへへぇ♪」
赤毛少女は俺の肉球を蕩けそうな顔で揉んでやがる。幸せそうにしやがって、こっちは意味がさっぱりわからねえんだぞ!
逃げよう。逃げるしかない。
「暴れてはダメです。〝伏せ〟」
俺は強制力が緩んだ瞬間に走り去ろうとしたが、次の命令の方が速かった。アスファルトの地面に膝と肘をつき、土下座でもしているようなポーズになってしまう俺。しかも「よくできました」とか言って頭を撫でられてるよ。なんて屈辱。
「くそっ!? だからなんで勝手に……なんなんだお前は!?」
「わたしは赤ヶ崎愛唯です。あなたのクラスメイトですよ、オオカミさん」
バレていた。
そりゃそうだ。俺が不良だってことは当然クラスにも知れ渡っているからな。家がヤクザだって噂も流れている。腫物扱いは無関心じゃない。誰もが俺を知っていて、関わらないようによく見ているはずだ。俺もこんな体質だからな。そういう意味で不良のレッテルは役に立っていたんだが、今回ばかりは裏目に出たようだ。
待て、こんだけ騒いだら流石にコンビニの店員が様子を見に来るんじゃないか? これ以上目撃者が増えるのは困るんだが……そんな気配はないな。人間の姿の俺を見ただけで怯えていたから関わるまいとしているのかもな。
「オオカミさんにお願いがあります」
「な、なんだよ?」
赤毛少女――赤ヶ崎愛唯は膝を合わせて屈むと、地面に伏した状態の俺にすっと手を差し伸べてきた。掌を上に向けている。また〝お手〟を要求されるのだろうか?
と思ったが、赤ヶ崎愛唯は意を決した顔で――
「わたしの、相棒になってほしいのです!」
わけのわからないことを言い出した。
相棒だと? なんの?
「差し当たってはお近づきの印にもふもふさせてくれると嬉しいです。夢にまで見たオオカミさんのもふもふ。もふもふ。もふもふぅ」
「やっぱりお前ヘンタイだろ!?」
混乱する俺に、赤ヶ崎愛唯はヨダレを垂らしそうな緩んだ表情になって再び手をわきわきさせてきた。
な、なにをされるんだ、俺?
さーっと血の気が下がる。なにこいつ怖ぇし意味がわからん。その辺の不良が可愛く見えるレベルだぞ。
「ハッ!」
俺の体にかかっていた強制力が急に解除された。
人間の姿に戻っている。情けない話だが、このヘンタイ女が怖すぎて俺をオオカミに変化させていた興奮が収まったみたいだな。
てことは、オオカミ化している時だけこいつの命令は有効なのか?
なんにせよ、これはチャンスだ。
「ああっ! 待ってくださいオオカミさん!?」
伏せた体勢から飛び起きた俺は、未練がましく呼び止める赤ヶ崎愛唯を振り返ることなくダッシュで逃げた。
せっかく買ったポテチを落としてしまったが、そんなもんはもう知らん。
あのままヘンタイに捕まるくらいなら、帰って妹に説教される方が何倍もマシだ。