三十七匹目 オオカミくんと猛獣使いの赤ずきん
「なっ」
ハイイロオオカミの男は絶句している。愛唯がピエロを振り切って猿轡を外し、猛獣使いの力で命令したんだとわかった時には、もうステージへと登ってきていたよ。
「なんのつもりかね、小さな赤ずきん」
萬石が鞭を握って愛唯の正面に立つ。観客たちも突然の展開に困惑している様子でざわめき始めたぞ。
「もう見てられません! どうしてこんな酷いことができるのですか!」
「フン、その酷いことを安全な場所から見たいという人間は少なくないのだよ」
鼻息を鳴らす萬石は、不安がる観客たちに手振りだけで落ち着くように指示する。それから愛唯に向き直り、脅すようにバシンと鞭で床を叩いた。
愛唯は、怯んだ様子はないな。気丈にも真っ直ぐ萬石を睨みつけているよ。
「逆に問おう。人間以外のあらゆる動物を支配できる力を持ちながら、なぜそれを使って楽しもうとしない? 自分の一言で殺し合いすらさせられるというのに」
「楽しんでいますよ。でも、この力は動物さんたちを支配するためのものじゃありません! 心に言葉を届けて仲良くなるためのものです!」
「幼稚な考えはよしたまえ。耳が腐る。仲良くなるための力で殺し合いを強制したりはできないだろう?」
「使い方が間違っているのです! そんな使い方で、いつまでも動物さんたちが従い続けるはずがありません!」
「やはり、平行線のようだ」
萬石が鞭を振り上げる。今度は床を叩くためじゃない。狂気の宿った瞳は愛唯を捉えている。
「愛唯!」
俺は咄嗟に動いていた。愛唯と萬石の間に割って入る。愛唯を庇うように抱き寄せ、背中で萬石の鞭を受けた。生々しい音と、激痛が背中から全身に迸る。痛ぇ。
「ハハハ! ニホンオオカミが盾となるとは! どういうことだね? 小さな赤ずきん、君が守るように命じているのかい?」
「そんなこと……オオカミさん! このままじゃオオカミさんが傷ついてしまいます! 離れむぐぅ!?」
危なく離れろと命じられそうになったから、俺は愛唯をさらに強く抱き寄せて口を塞いでやった。
「ダメだ。俺が離れたら愛唯がぶたれるだろ。大丈夫だ。俺は、喧嘩ばっかりしてきたからな。痛みには慣れてる」
鞭で叩かれる経験はなかったけどな。今はオオカミ化しているから、人間の時よりは堪えられそうだ。
大好きなもふもふに顔を埋められた愛唯は、かぁああああっ。なんか耳まで真っ赤になってるぞ。呼吸できないくらい押しつけちまったか?
「そんなに叩かれたいのなら、存分に叩いてやろうではないか!」
萬石は嗜虐的に笑うと何度も何度も何度も俺に鞭を振り下ろしてきた。バシバシ響く鋭い音がテント内で反響し、次第に観客たちから歓声が上がり始めたぞ。ヘンタイどもめ。
「や、やめてください!?」
「どけと命じるのは簡単だが……小さな赤ずきんよ、猛獣使いの力を私のために使うと誓え。そうすれば鞭打ちはやめようではないか」
馬鹿げた提案だ。愛唯に従うなと言いたいが、歯を食い縛って鞭打ちの痛みに堪えてるから声が出せない。
「おっと、君も動くんじゃないぞ。その場に座っていろ」
たぶん助けようとしてくれたのだろう、ハイイロオオカミの男がどかっとステージの床に腰を落とさせられた。
鞭打ちは続く。
萬石も、観客も、俺が打たれる度に熱気を上げてやがる。背中が麻痺してきたが、萬石の野郎は適格に打つ場所を変えて痛みを継続させてくるから息が詰まっちまう。
「オオカミさん!? もういいですから!? オオカミさん!?」
「ハハハ! なかなか堪えるではないか! もっといい声で吠えてもよいのだぞ?」
「ぐぅ!?」
さらに強く打たれ、俺はついに呻いてしまった。俺の苦悶の声を聞いた愛唯は、まずいな。大粒の涙を流す顔は……心が、折れかけている。
「さあ、小さな赤ずきん。答えは決まったかな?」
「……わ、わかりま」
「ふざけんな!!」
俺は愛唯の言葉を大声で遮ると、振り返って萬石の鞭を顔面に受けた。だが怯まず、そのまま鞭を掴む。萬石が放せと命じる前に次の言葉を放つ。
「こいつの力はてめえのためにあるんじゃねえよ! こいつが、こいつの夢を叶えるためにあるんだ! 理想だ幻想だと普通なら鼻で笑われるようなことを本気で目指してる。それをてめえの勝手で邪魔していい理由はねえ!」
愛唯はいつだって一生懸命で、全力で俺を自分のサーカスに誘うために気を引こうとしていた。だが、オオカミ化した時に『命令』してそれを強制しようとはしなかった。そもそもそういう命令は猛獣使いの力じゃできないのかもしれないが、たとえできたとしても愛唯は使わないはずだ。いや、絶対に使わない。ここは断言してもいい。
萬石のように力で縛るやり方を、愛唯にさせるわけにはいかねえんだよ。
「馬鹿馬鹿しい。世界を、社会を、人間を知れば綺麗事など通じないと気づく。やがて絶望する。ならば最初から教えてやるのが優しさというものだろう?」
「こんなことをさせるのが優しさだと? ならいらねえよ! 足掻いて足掻いて足掻きまくってから絶望した方がまだマシだ! 愛唯の目指すサーカスが夢物語で、てめえの方が現実的で常識だってんなら、そんなもの――」
俺は鞭を強く引っ張って萬石から奪い取り、無造作に後ろへと放り捨てた。
「俺たちが、変えてやる!」
「ぬっ!?」
鞭を奪われて怯んだ萬石に背を向け、俺は愛唯の両肩に手を置いた。俺を見上げる愛唯は、涙こそ止まっているが、なんか呆けてるような顔をしているな。
「あの、オオカミさん、それって……」
「愛唯、お前はどうしたい? 俺になにをしてほしい?」
なぜか口をあわあわさせていた愛唯だったが、ここはちょっとしっかりしてもらいたい。俺の問いに愛唯は押し黙り、逡巡し、俺と萬石を交互に見やって――微笑んだ。
「オオカミさんは、優しいですね」
愛唯が背伸びをする。
優しく包むように小さな手を俺の両頬へとあて――
形のいい桜色の唇が、俺のオオカミ化した鼻の頭にそっと触れた。
「ふぁっ!?」
今、俺、愛唯が、俺に、口を……き、きききキス、したよな?
え? なんで、いきなり?
「オオカミさん、あんな奴に、負けないでください!」
「――ッ!?」
途端、俺の体の奥から今まで感じたことのない熱量が爆発した。全身の血が沸騰どころか蒸発してるんじゃないかってくらい熱い。な、なんだこれ? 俺はもうオオカミ化してるのに、さらに変化しているってのか?
愛唯に、キスをされたから?
でも、嫌な感覚じゃないな。
「変異が始まって――おい、なにをしている! 早くこいつらを取り押さえろ!」
「そ、それが」
焦って冷や汗を掻いた萬石が舞台裏の団員たちに呼びかけるが、誰もステージには上がって来ないな。戸惑った声だけが奥から聞こえてくる。
それもそのはずだ。
「すまないが、ここを通すわけにはいかない」
シロサイ化したままの來野がステージへの出入口を封鎖しているからな。萬石以外があいつをどうにかできるとは思えない。
ひゅっと。
攻めあぐねていた団員たちの頭上を小柄な人影が飛び越えた。果敢に立ち向かうピエロでもいたのかと思ったが、違う。
反った刃が取りつけられた棒状の武器を持つそいつは――
「セラスさん! これを!」
弥生だった。
「や、弥生殿! どうやってここに?」
薙刀を受け取りつつ來野は困惑気味に訊ねた。弥生は俺たちとは別の檻に入れられていたはずだ。いくら弥生が小柄といっても通れるほどの隙間はないし、猛獣用の檻を破壊できるほどの力もない。
來野の隣に並んで構えた弥生は、苦笑していた。
「みんな捕まっちゃったから流石にお爺ちゃんが突入命令を出したみたい。兄貴の作戦が上手くいかなかった時のためにいろいろ準備してたんだって。このテントはとっくに包囲されてるよ」
爺さんめ、俺に責任を取らせるんじゃなかったのかよ。いや、それはあくまで他に打つ手がなくなった時ってことか。寧ろ捕まった俺たちを口実に突入したとかありそうだ。なんにしても助かった。
これで心置きなく戦える。
だが、さっきまでとはかなり体の勝手が違う。床もだいぶ近くなった。まあ、しょうがないか。俺は今、四本の脚で立っているからな。
「お、オオカミさんが、完全なオオカミさんに」
戦慄く愛唯。俺も正直驚いている。半人半狼の中途半端な変身しかできなくなっていたのに、今の俺はどういうわけか完全な獣の姿だった。
慣れない体は動かしにくい。
それでも、力が溢れてくる。なんだってできる気がする。
「覚悟しろよ、萬石」
唸り声を轟かせ、姿勢を低くし、俺は萬石へと一歩また一歩と近づいていく。
「と、止まれ!」
たじろぐ萬石は猛獣使いの力で命令する。俺は一瞬硬直したが――
「大丈夫です! 動いてください、オオカミさん!」
すぐに愛唯が命令を上書きしてくれた。慣れない体でも、愛唯が動けと言えば生まれた時からこの姿だったかのように歩を進められるな。
「止まれ! 私に近寄るな! そうだ、そのまま小さな赤ずきんを襲え!」
「わたしは、オオカミさんを信じています!」
愛唯の言葉は命令ではなかった。だが、萬石に命じられて硬直していた体は、鎖から解き放たれたみたいに自由になった。
足が動く。
萬石がいくら止まれと連呼しようが、もう硬直すらしないな。
「馬鹿な!? 獣のくせに、なぜ私の命令に従わない!?」
ついにステージの端に追い詰められて驚愕に大きく目を瞠った萬石に、俺は言ってやったよ。
「愛唯の方が上だったってことだろ。それに同じ強制力のある言葉だったら、聞きたい方を聞くのが当然だ」
「ふ、ふざけるな!?」
萬石がスーツの懐に手を入れる。抜いたのは黒光りする凶器――拳銃だ。
また変な薬か麻酔銃かと思ったが、撃鉄を起こし、引き金を引いて射出された弾は――実弾だった。
あんなものを所持しているとなれば、もう刑務所行きは免れないだろうな。
俺はまっすぐ眉間に飛んでくる銃弾を。
口で受け止め、噛み砕いた。
「なにっ!?」
戦慄した萬石がさらに引き金に指をかけるが、横から飛んできた棒状のなにかが拳銃を弾いた。
団員たちを制圧した來野が投槍の要領で薙刀を投擲したのだ。
「今だ! 行け、狩神狼太!」
「兄貴! もうそいつなんかボッコボコにしちゃえ!」
「オオカミさん、遠慮はいりません! やっちゃってください!」
三人の声を背中に受け、俺はステージを転がっていく拳銃を慌てて拾おうとする萬石に向かって疾駆する。
「終わりにしてやるよ。てめえのサーカスはこれにて永遠に閉幕だ!」
「くそっ!? 来るなぁあああああッ!? 私の命令に従えぇえええええええええッ!?」
もはや、萬石の言葉は俺に対してなんの強制力もなかった。
大きく牙を剥いた俺は、涙でくしゃくしゃになった萬石を押し倒し――
その喉笛に、容赦なく嚙みついてやった。




