三十五匹目 オオカミくんと支配者の狂気
「余計なことを喋るものではないよ」
今となっては耳障りな冷酷で残忍な声。來野がぶっ壊した鉄扉を踏みつけて、シナモンの香りを纏った黒スーツ姿の男が現れた。
萬石は檻に入れられた俺と來野を見るや、ニマァと気持ち悪い笑みを浮かべる。
「いやはや、そこのハイイロオオカミがまた逃げ出すと困るから罠を張っていたのだが、別の獲物が引っかかってくれるとは僥倖だった」
「萬石……ッ」
ハイイロオオカミの男が目を鋭くさせる。俺は萬石を見るなり檻の扉を蹴り壊して殴りかかろうとしたが、後ろについて歩く赤毛の少女を見て立ち止まった。
罪人のように手錠をかけられ、鎖つきの首輪を嵌められているそいつは――
「愛唯!?」
だった。
「オオカミさん! セラスちゃん! なんでこんな酷いことができるんですか!」
「なんで? 獣を檻に入れてなにが悪いのかね?」
「狭くて冷たい檻に入れられて嬉しくないのは人間も動物さんも同じです!」
萬石を睨み上げて訴える愛唯だったが、俺たちの正面にある檻を見て――驚愕に目を丸くしたぞ。
「あ、あなたは」
「大きくなったじゃねえか、小さな赤ずきん」
「やっぱりお祖母様のオオカミさん!? どうして!?」
ハイイロオオカミの男は萬石と昔からの知り合いだったんだ。愛唯とも顔見知りだとしてもおかしくはない。が、今はそんなことはどうだっていい。
「感動の再会は後にしてもらおうか」
ジャラリと萬石が愛唯の首輪の鎖を引いた。首が少し絞まって愛唯は短く呻く。あれだと動物扱いだ。愛唯は正真正銘の人間だぞ!
「貴様、愛唯をどうするつもりだ!?」
「予定が変わったのだよ」
咆える來野の威圧などそよ風のごとく受け流した萬石は、さらに鎖を引いて愛唯を自分の傍まで引き寄せた。
「小さな赤ずきんの考え方は我々にとって邪魔でしかないが、その能力だけは捨て置くには惜しくてね。当初は時間をかけて矯正し、数年後には自ら我々の下に降るように調整するつもりだった。だが、こうして早々に秘密を知られてしまった以上は仕方あるまい?」
萬石は懐から小さな鍵を取り出すと、愛唯の手錠の鍵穴に挿入して回した。カチャリと開錠の音が鳴り、愛唯の手から手錠が外れて床に落ちる。
両手が自由になった愛唯に、萬石は猛獣使いの鞭を差し出した。
「鞭を持て、小さな赤ずきん。支配者の快楽というものを教えてあげよう」
まさか、愛唯に俺たちを鞭打ちさせるつもりなのか? 動物虐待と聞けば心の底から怒って不良にすら突っかかっていくような奴だぞ。酷すぎる。
「嫌です! そんなもの、知りたくありません!」
当然、愛唯は即答で断った。
だが、萬石は――
「きゃあッ!?」
表情一つ変えず、その鞭で愛唯の頬を強かに打ちつけやがった。
「愛唯!? 貴様ッ!?」
「反抗すれば鞭を打つ。言うことを聞いてさえいればいいと体に教え込む。調教の基本なのだよ」
「お前、自分がなにをやってるかわかってんのか!?」
「調教だと言っただろう? ふむ、人間を調教するのは初めてだが、動物と違って面倒が多そうだね」
こいつ、なにもかもが腐ってやがる。もうどうなっても構わん。檻をぶち破ってその嫌味な面を陥没させてや――
「許さんぞ貴様ぁあッ!?」
俺が怒りに任せて動くよりも先に、來野が額に角を生やして萬石へと飛びかかった。來野の突進をくらえばこの程度の檻なんて紙切れ同然だ。
届きさえすれば。
「止まれ」
萬石はそのたった三音だけで來野の足を止めやがった。つんのめった來野は檻に激突はしたが破るには至らず、隙間から突き出た角を萬石に掴まれてしまった。
「この角は……シロサイかな? だがその程度の変化しかできないとなると、血はかなり薄い。つまらん。ほぼ人間の獣になど興味はないのだよ!」
萬石はそう吐き捨てると容赦なく來野に鞭を打った。愛唯が悲鳴を上げる。仰け反った來野が吹っ飛ぶように背中から倒れ込む。
俺を巻き込んで。
「……やっちまった」
俺も俺で受け止めようとしたのがまずかった。俺と來野は縺れ合う運命にでもなんてんのかね? 受け止めた手が、來野の膨らんだ二つの双丘を思いっ切り掴んでしまったよ。
ほぼゼロ距離から香るレモン。
こんな時なのに俺の意識とは無関係に血が滾ってきやがった。ダメだ! なるな! 今オオカミの姿になっちまったら萬石の言葉に逆らえなくなっちまう!
「ハハハ! やはり君もニホンオオカミだったか!」
萬石の高笑いがテント内に響く。無理だった。もうオオカミ化しちまったよ。俺は呻く來野を脇に逸らし、二本の脚で立ち上がって萬石を睨んだ。
「む? なんと中途半端な姿だ」
「……悪ぃな。俺は、オオカミの血が四分の一しか流れてないんだよ」
幻滅した様子の萬石に俺は皮肉げな笑みで返してやった。だが萬石はさらに幻滅するどころか不思議そうに眉を顰めた。
「四分の一? その濃さなら完全に獣になれるはずだ。あの雌オオカミのように」
パチンと萬石は指を鳴らした。すると、壊れた鉄扉の向こうから一人のピエロがなにかを抱えてやってきたぞ。
裸身に布切れを巻きつけただけの、明るい茶髪を短めのポニテに結った少女だった。
「弥生!?」
瞼は閉じているが、呼吸は規則的だ。眠っているだけみたいだな。
「すばしっこく逃げ回って厄介だったからね。エサで釣って罠に嵌めた後は麻酔銃で眠らせたのだよ。――適当な檻に入れておけ」
弥生はそのまま俺たちの隣の檻へと入れられてしまった。口元にポップコーンの食べかすみたいなのがついてるけど、なにあいつそんな馬鹿みたいな罠に引っかかったの? いや、でも、弥生ならあり得そうだから困る。
「ああ、そうだ。君たちの代わりに会場に来ていたお仲間も捕えているのだよ。助けは期待しない方がいい」
「なんだと!?」
まさかそんな簡単に……俺たちを、人質に使われたのか?
「狩神一族だったか? 君らをエサに使えばもっと大物が釣れそうだ」
やばい。萬石の野郎は狩神家を一網打尽にする気だ。そう簡単にやられることはないと思いたいが、責任を取ると言った俺はともかく、弥生や他の連中を人質に使われたらどうなるかわからんぞ。
「ダメです!」
と、愛唯が俺を庇うように両腕を広げて萬石との間に立ちはだかった。
「これ以上、わたしのお友達を虐めることは許しません!」
「許す許さないを決めるのは君ではないのだよ」
萬石が無情にも再び鞭を打つ。しかし愛唯は倒れなかった。打たれる前に、俺が檻から手を伸ばして鞭を受け止めたからな。
「オオカミさん」
「下がってろ、こいつは俺が殴る」
俺に言われるがまま愛唯は少し離れた。萬石は「放せ」とだけ命じ、苛立たしげに俺をしばこうとしたが、その前にピエロがなにかを耳打ちした。
オオカミの耳で聞こえた言葉は――そろそろ時間です、だ。
「ふむ、本来は今夜の舞台で小さな赤ずきんに命じさせた彼らを戦わせようと考えていたのだが、半端なニホンオオカミはともかく、もう片方がこれではショーにならんな。そっちの雌は麻酔がまだ切れないだろうし」
萬石はどこか神妙な顔になって手を顎へと持っていく。そのまましばらく逡巡したかと思うと、俺とハイイロオオカミの男を交互に見やり――
「決めた。今宵はハイイロオオカミVSニホンオオカミで行こうではないか!」
粘着くような笑みを浮かべて、高らかにそう告げた。




