プロローグ
青年の全身を灰色の体毛が覆った。
精悍だった顔は鼻と顎が突き出るように伸び、頭からは三角形の耳が飛び出す。背中が前屈するように曲がり、鋭い爪が生えた四つ足で力強く床を踏み締めた。
太く尖った牙が並ぶ大口から、ぐるる、と唸り声が漏れる。
青年だった頃とは骨格からして異なる、獣の姿。
「おとこのひとが、オオカミさんになった……?」
その様子を僅かに開いたドアの隙間から赤毛の少女が目撃していた。十歳にも満たない少女は青色に澄んだ両眼を見開き、驚愕のあまり小さな口をパクパクと開閉させている。
場所はとあるサーカスの舞台裏にある控室。演目は全て終了しており、観客もほとんど帰ってしまったため歓声は聞こえない。少女も観客の一人だったのだが、そのサーカスで猛獣使いをしている祖母に会うために残っていたのだ。
控室にはオオカミの他に祖母の姿もあった。少女と同じ赤い髪に青い瞳。猛獣使いの派手な衣装を纏っている姿は、もう六十歳近いというのにずいぶんと若々しく見えた。
「お、おばあさまと……オオカミさん?」
オオカミが祖母を襲う――ようなことはなかった。パイプ椅子に腰かけた祖母の足下で行儀よく伏せている。
見覚えがあった。確か、ステージで祖母と一緒にショーをしていたオオカミだ。
ふさふさの毛に、よく見ると凛々しくも愛嬌のある表情をしている。
「……かわいい」
オオカミを見詰めていた少女の瞳から驚きは薄れ、好奇心の色が強くなる。
「どうした、小さな赤ずきん? 入らないのかね? ミセス・アンジェラが待っているよ」
「――ッ!」
と、ドアの隙間に貼りつく少女を不審に思ったのか、サーカス団員の男性が声をかけてきた。少女は肩が跳ねるほど驚き、勢いよくダッシュしてその場から逃げ出してしまった。
そして他の団員と談笑していた母親を見つけ、ほとんどタックルの形で抱き着いた。少女は興奮で息を乱しながら、今しがた目撃した光景をありのまま母親へと告げる。
「たいへんですおかあさま! おとこのひとがオオカミさんになりました!」
「…………えっ!?」
母親は一瞬ポカンとすると、少女が口にした言葉の意味を理解してさーっと顔面を蒼白させた。それから少女を庇うように抱き締め、緊張した面持ちで舞台裏の外へと連れ出す。
母親は周囲に誰もいないことを確認すると、少女の目線に合わせる位置まで腰を屈めた。
「いいですか、愛唯さん」
優しく包み込むような母親の声が諭すように少女に語りかけられる。
「男という生き物は、みんなオオカミなのです」
「そうなのですか?」
「ええ、だから男には気をつけるのですよ」
少女は母がなにを言いたいのかわからなかった。だから言葉通りの意味で受け取ることしかできなかった。
「ほんとうに、おとこのひとはみんなオオカミさんですか? おとうさまも?」
「お父さんは違います。でも大抵の男の人はそうです。愛唯さんは可愛いから、無暗に近づいたら赤ずきんちゃんみたいに一口でパクっと――」
「でしたら、わたしはモウジュウツカイになります!」
「えっ?」
無邪気な笑顔で言い切った少女に、母親は表情に困惑の色を浮かべた。
「おばあさまみたいなりっぱなモウジュウツカイになれば、オオカミさんもこわくありません!」
「いや、えっと、そういうことじゃなくてですね……」
「おばあさまみたいなサーカスをつくれば、オオカミさんともなかよくなれます!」
「な、仲良くしちゃマズイんじゃないかなぁ」
「ダメなのですか?」
くりっとした大きな瞳をうるうると潤ませる少女。上目遣いで見上げてくる儚くも愛らしいその姿は、母親の理性をプツンと途切れさせるには充分な破壊力を秘めていた。
「だ、ダメじゃありませんわ! 愛唯さんならきっとできますわ!」
「おかあさま! わたしがんばってモウジュウツカイになります!」
「その意気――はっ!」
親子で両手の拳をぎゅっと握り合う微笑ましい光景の中で、母親は当初の話の内容がなんだったのかを思い出した。
「ち、違うのです愛唯さん!? オオカミというのは物のたとえで」
「モウジュウツカイになるためにシュギョーしてきます!」
「愛唯さぁああああん!?」
「ばんごはんまでにはもどります!」
「愛唯さぁああああああああああん!?」
たたたたっ! とどこかへと駆け去ってしまった娘に、母は結局その後も本当の意味を伝えることができなった。