十七匹目 オオカミくんと狩神宗主
朝起きると、痛みは残っているものの体中の腫れはすっかり引いていた。
自分の回復力に感心しつつ、顔を洗った俺は一足先に着替えて朝食の席へと着いていた。
弥生はまだ起きてこない。今日は日直じゃないし、夜遅くまでポテチ食いながら何本も映画見ていたようだからな。
別に二人揃って飯を食う決まりなんてない。俺は弥生を待たずに用意されていた朝食に箸をつけた。
「今日もザ・和食だな」
弥生はまた文句を言いそうだが、俺は和食好きだけどな。ほら見て、メインの焼き鮭なんか皮がパリッパリで身はホックホク。この自家製沢庵は鮮やかな黄色にしっかり漬かっているし、豆腐とワカメの味噌汁は鰹出汁が絶妙だ。生卵は濃口の醤油と和わせてアツアツの白米にぶっかけ、一気に掻き込む。TKGは至高だと思います。
「ふぁ……兄貴、おはよう。調子に乗って四時まで映画見ちゃったし……眠い」
俺が半分ほど食い終わった辺りで弥生がようやっと起きてきたよ。小さく欠伸して眠い目を擦りながら、テンションの低い声で――
「なんか、お爺ちゃんが呼んでたよ」
俺のテンションも下がるようなことを言ってきやがった。
「ああ? 爺さんが?」
朝から呼び出しとは珍しいな。いつもならこの時間は狩神家が所有している山をオオカミの姿で駆け回っている頃なのに。
「今度はなにやらかしたの? 昨日、怪我して帰ってきたし」
「……さてな」
心当たりはいろいろあるが、タイミング的にはやっぱり昨日の喧嘩だろうな。來野との決闘は誰にも見られてないはずだから不良どもの方か。
とはいえ、今さら喧嘩の一つ二つで呼び出しってのも妙だ。ガキの喧嘩程度で元々ヤクザだと思われがちな狩神家の評判が下がることもない。蹴り倒した中に市長の息子でもいたのかね?
俺は残りの朝食をさっと食ってから、屋敷の最奥にある爺さんの部屋へと向かった。
「爺さん、入るぞ」
一応断りを入れてから、襖を開く。
手入れの行き届いた臭くはない獣臭。最低限の家具と調度品しか置かれていない十二畳の和室には――いた。神棚の前に敷かれた座布団の上に、老齢なニホンオオカミが凛然とした顔でおすわりしているよ。
いつ見ても、でかいな。普通のニホンオオカミが中型犬程度なのに比べて、大陸のオオカミにも引けを取らない大きさだ。
「来たか」
瞼が開かれ、イヌ科の口から人語が発せられた。ヒグマだろうがライオンだろうが問答無用で居竦ませる眼光。気の弱い人間なら悲鳴を上げることすら許されず崩れ落ちるだろう威厳は、齢を重ねるごとに衰えるどころかより鋭さを増している。
これが俺の爺さん――狩神真牙。
今年で九十八歳になるってのに、野山を駆け回れるくらいピンピンしている狩神一族の四代目宗主。百年近く生きて、人語を介し、人に化ける力まで持った巨大オオカミとかもう正真正銘の妖怪だな。
「朝から呼び出して、一体なんの用だ?」
俺は爺さんの正面に腰を下ろして胡坐を掻く。爺さんは一族の掟にこそ厳しいが、それ以外の私生活については割と放任主義だ。口を出すことは滅多にない。俺が夜遊びしようが喧嘩しようが、余程じゃない限りは自己責任だと言って放置されてきた。
だから、今回呼び出されたってことは余程のことだ。
あの不良ABCD、そんなに偉い人間の関係者だったのか? まったく、人は見た目だけじゃわからないもんだな。
「率直に訊く。狼太よ」
雷鳴のように轟く声音に、俺はどんな雷が落ちるのかと僅かに身を固くし――
「女ができたらしいな」
「ブッ!?」
予想の遥か斜め上をぶっ飛んだ言葉に思わず噴き出してしまった。
「はぁ!? ちょ、なんで爺さんがそれを!?」
あの噂は学校内だけのローカルなものじゃ……?
「街中で噂になってるよ。あの〝西の狂い狼〟に彼女ができたって」
と、最初から盗み聞きしていた弥生が襖を開けて入って来たぞ。弥生のやつ、さっきまで寝不足でローテンションだったってのに、俺の女関係の話になるや興味深々でいつもの調子に戻ってやがる。
「いやぁ、昨日訊こうと思ってたんだけど映画見てたら忘れちゃってたんだよねー。ねえねえ、兄貴の彼女ってどんな人? 可愛い系? 綺麗系?」
「食いつくな! そんなんじゃねえから!」
「だって兄貴の周りにいる女の子って身内ばっかりだったし、超気になるでしょ!」
小悪魔的な笑みを浮かべて俺に擦り寄ってくる弥生。なにこれめっちゃウザい。普段は可愛いウザさなのに今は部屋から蹴り出したいくらい鬱陶しいぞ。
「弥生、話の途中ぞ。下がっていなさい」
爺さんが俺と比べて百倍くらい優しい口調で弥生に注意した。たった一人の孫娘にはデレッデレである。たった一人の孫息子にももっと優しくしてええんやで? いや待ってやっぱ遠慮します。逆に気持ち悪い。
爺さんに宥められた弥生は「は~い」とテキトーな返事をして俺から離れた。それでも退室せず部屋の隅にちょこんと座りやがったよ。聞く気満々じゃねえか。
「てか、その噂どんだけ広まってんの?」
「言ったじゃん、『街中』って」
そういや、あの不良どもも勘違いしてやがったな。一昨日の昨日で広まりすぎでしょ。俺ってばどんだけ有名人だったの? 悪い意味で。
「狼太よ、女には不用意に近づくなと忠告していたはずだが?」
「それはただの噂だ。俺たちはそんな関係じゃない」
俺だって不本意なんだよ。その誤解を解いたら社会的に死ぬから仕方なく……本当に仕方なーくそのままにしているだけなんだ。
「ふむ。『俺たち』と括れるほどには仲がよさそうではないか」
「だから違う!?」
どうやったらわかってもらえるんだ? 昨日やっと來野に理解させたばっかりだってのに……くそっ、なんか顔が熱くなってきた。昨日川に飛び込んだから風邪でも引いたか?
「ではなぜこのような噂が流れている?」
狼狽する俺に、爺さんはどこまでも真剣な目を向けてきやがる。
……ダメだな。隠し通せるわけがない。だったら正直に話してしまった方が楽だ。
「正体がバレた」
「えっ!?」
ぎょっとした声は後ろの弥生からだ。まあ、下手すりゃ一族の危機になり得るレベルのカミングアウトだったからな。
爺さんは静かに瞑目すると、数秒ほど逡巡し――静かに唸った。
「そうか……ならば、本当に嫁に貰うしかないぞ?」
「ああ、そうだな嫁に――ってちょっと待てなんでそうなるんだ!? いや理屈はわかるけども!? そこまで大袈裟にしなくても大丈夫だから!?」
狩神一族には俺の母ちゃんみたいに純粋な人間だっている。当然その人間たちは俺らがニホンオオカミだということを知っているわけで、逆を言えば一族以外の人間には知られていないってことだ。
とはいえこの街の市長みたいな一部の例外はいるようだが、知ったからには一族に入るしかない。
それが無理なら……あんま想像したくねえが、消される、かもしれないな。
生命的にか社会的にかはわからないが、とにかく狩神家にはそのくらいやれてしまう力があるんだ。
狩神家は単に会社経営で成功しているだけじゃない。ヤクザではないにしろ、裏社会でもかなりの権力を持っているらしい。らしいというのは、実際になにをやっているのか俺はまだ詳しく教えてもらってないからだ。
人化を覚えた狩神一族は人間社会に溶け込むために、農作物を荒らすシカやイノシシを狩る仕事をしていたと聞いている(肉や毛皮を売っていたのはその副次的なものだ)。その害獣を狩る仕事が今も形を変えて引き継がれている――ってことまでしか知らない。
物騒な想像ならいくらでもできそうだな。でも詳細は成人するまでは伝えない掟だそうだ。知らないままの方が幸せになれそうだが、爺さん的にはそうもいかないんだろう。
「お前はやがて儂の跡を継ぎ、狩神一族の宗主となるのだ。女に近づくなと教えてきたが、いつかは娶る必要もあろう」
なにせ俺は、長男だ。親父の次の代に宗主を継承する筆頭だ。
「俺にその気はないっつってんだろ!」
敷かれたレールに沿うのは簡単だろう。でもな、俺はもっと自由に生きたいんだよ。具体的になにをしたいとかはまあ……その、まだ特にないけどさ。
――って、今は後継ぎとかそんなのはどうでもいいんだよ!
「爺さんは一族の正体が不特定多数に知られることを危惧してんだろ? 確かに正体はバレちまったが、相手も相手でちょっと特殊な感じだから世間に知られるようなことはないと思う。たぶん」
俺はどうしてこんな必死に庇ってるんだ? もういっそ一族の手で抹消してもらった方が……ありえんな。俺はこんなことで人間を捨てる気はない。うん、そうだな。人間としてやっちゃいけないから必死にもなるってもんだ。
「つまり、その者は信用できると?」
爺さんは俺を真っ直ぐ見詰めて問う。爺さんだって人間と交わっているからな。そんな非合法の手段は取りたくないんだろうね。
俺は力強く頷いた。
「ああ、問題ない。もしなにかあれば、俺が責任持ってどうにかする」
ここ数日でわかってきたが、あいつは、愛唯は少なくとも動物のことに関してならひたすらに真剣で真摯だ。普通の人間ならネコ一匹のために不良たちに突っかかったりはしない。俺との約束だってきちんと守ってくれているしな。
來野の方はそれこそ心配いらない。俺の正体をバラせば自分の首だって絞めることになるからな。そのくらいあいつはちゃんとわかっているさ。
だから、大丈夫だ。
サーカスの件だけは早めに諦めさせないといけないけどな。
「む?」
とその時、爺さんの耳がピクリと動いた。視線を俺から外して襖へと向ける。
「? どうした爺さ――」
首を傾げかけた俺にも、聞こえてきたぞ。なんか表の方が騒がしくなっているな。剣呑って感じの雰囲気ではないが、警備をしていた分家の奴らが集まって誰かを追い返そうとしている様子だ。
朝っぱらから張り切っちゃった訪問販売の営業マンでも来たのか……いや違うぞ。
今、微かに聞こえた声。聞き覚えも心当たりもありまくる女の子の声――
「ま、さか……ッ!?」
嫌な予感どころか確信さえ抱いてしまった俺は、慌てて立ち上がると爺さんの部屋を飛び出して玄関へと走った。




