十匹目 オオカミくんと悪夢を見た朝
「……」
瞼を開くと、そこには見慣れた木造の天井が広がっていた。息が少し乱れているな。冷や汗も気持ち悪いくらい掻いてやがる。もしかしたら悲鳴の一つでも上げたかもしれない。
「くそっ……」
あれは、懐かしくも忌々しい昔の記憶だ。
確実に俺の心へ傷を刻みつけたあの日の悪夢だ。
今まで繰り返し何度も魘されてきたトラウマは、オオカミ化が中途半端になるようになってからはめっきり見なくなっていた。そういう過去があったことだけ忘れず、詳細については記憶に蓋をして思い出せないようにしていた。
なのに、なんで今になって……いや、原因は明確だ。
「赤ヶ崎愛唯が、やっぱりあの時の女の子だったってのか?」
夢に出てきた少女は赤ヶ崎愛唯をまんま幼くした姿だった。昨日のことがあって記憶が置換されたわけじゃない。今にして鮮明に思い出してきたぞ。あんな真っ赤な髪をした奴がそこら辺にほいほいいて堪るか。
あの日から俺はオオカミ化がトラウマになったし、ほとんど人間不信の状態で人付き合いを避けるようにしてきた。家でじっとしてられない性分じゃなかったら引き籠りになっていたかもしれないな。
「……忘れよう。愛唯があの時の少女だろうと俺にはもう関係ない」
そうだ。関係ないしどうだっていい。……はずなのに、悪夢でしかないトラウマなはずなのに、愛唯の姿を思い描くとなぜか心の奥がチクリと疼いた。
きっと猛獣使いの力を受けた後遺症かなんかだな。そうに違いない。
ベッドから下りて一階の洗面所へと向かう。顔を洗えばスッキリすると思ったのに、愛唯の顔と、もやもやした煩わしい気持ちが消えてくれない。
「どうしちまったんだ、俺?」
鏡に映る自分に問いかけても、当たり前だが答えは返って来なかった。
「あ、兄貴が、朝から鏡に向かってぶつぶつ話しかけてる……」
代わりに聞こえたのは妹の若干引いた感じの声。見ると、デフォルメされたオオカミのキャラクターがプリントされたパジャマ姿の弥生が、不審者を見るような目で俺を睥睨していた。もはや自然体で耳と尻尾が飛び出しているが、今は注意する気分じゃないな。
「なんか兄貴、一昨日の夜から変じゃない? 大丈夫? 動物病院行く?」
「なんでもねえし、そこはせめて人間の病院にしてくれ」
まだ精神科とかって言われた方が……いや、それはそれで傷つくな。
「ふぅん? なんならこの弥生さんが相談に乗ってあげよっか? だって兄貴、他に相談できる相手いないっしょ?」
「余計なお世話だっつの」
悪戯っ子みたいなニヤついた笑みを浮かべてそんなこと言われても、面白おかしく引っ掻き回される未来しか見えないんだよ。
「それより今日は早いな。いつもならギリギリまで寝てるくせに」
「まあ、日直だからねー。あー、面倒臭いなぁ」
弥生は、いや俺もだけど、オオカミの夜行性が影響して夜は眼が冴えてしまうんだ。だからなかなか寝つけず朝起きるのがつらい。俺もあんな悪夢さえ見なかったらもうちょっと寝ていたな。
「あ、朝ごはんもうできてるってさ。今日はアジの開きだって」
洗面所から出ようとすると、弥生が洗った顔をタオルで拭きながらそう教えてくれた。普通の家庭なら母ちゃんが飯を作るんだろうが、狩神家は分家の人間が家政婦として家事諸々を全部やってくれる。いや、金持ち自慢してるわけじゃないぞ。おかげで俺も弥生も家事なんてなんもできないからな。
「着替えたら行く。親父たちは?」
「んー、ずっと仕事。今日も帰って来ないんじゃない?」
俺たちの親父は県内でも指折りの総合商社を経営している。つまり社長ってやつだ。半分オオカミのくせにな。昔は一族が狩ったシカやイノシシの肉や毛皮をほそぼそと売っていたらしいが、明治維新以降は事業を拡大して今じゃ貿易にまで手を出しているそうだ。
人間の母ちゃんも秘書として親父を手伝っていて、二人とも年から年中仕事で飛び回っているからほとんど家に寄りつきもしない――ってほどでもないが、週に二日くらいしか帰ってこない。
「あんな仕事人間にだけはなりたくないな。日本人はもうちょっと休むべきだ」
「兄貴の考えもどうかと思うけどねー」
もう今更だから俺も弥生も寂しいなんて感情はとっくに消え失せている。だいたいこの家には爺さんもいるし、分家だって敷地内だ。寂しいと思うには大所帯すぎるだろ。
学校の制服に着替えて食卓に着く。無駄に広い和室の長机には二人分の朝食が並べられていた。湯気の立つ白飯とシジミの味噌汁。キュウリと白菜の漬物。卵焼きはふんわりふっくら、アジの開きはカリっと絶妙な焼き加減だ。
軽く手を合わせて食べ始めると、弥生がアジの開きを齧りながら眉を顰めた。
「う~、これはこれで美味しいけど、たまには洋食がいいんだよねぇ」
「なら爺さんに言ってみろよ。孫娘の頼みなら聞くんじゃないか?」
「あのお爺ちゃんがハンバーガーとかラーメンとか許すわけないじゃん!」
「お前朝からなに食う気だよ! あと洋食どこ行った!」
朝食は爺さんの方針で和食と決まっているんだよ。その爺さんはといえば、オオカミとはいえ俺たちなんかよりずっと朝の早い老人だからな。この時間はだいたい裏山辺りの散歩に出かけている。
だから俺と弥生だけが向かい合って箸を進める光景は……まあ、ちょっと寂しいかもな。
「それで兄貴、サーカスに連れてってくれる約束は忘れてないよね?」
「そんな約束した覚えはねえ。代わりのポテチなら昨日三倍にして買ってきただろ」
愛唯が拾ってくれたものだけじゃ許されないと思って昨日の帰りにうすしおとコンソメを買って帰ったのだが、五倍は必要だったのか? それとも味が普通すぎたか?
「アレはあの時じゃないとダメだったの! サーカス、けっこう楽しみにしてるんだよ?」
弥生は膨れっ面になると、おもむろに中学のセーラー服のポケットからスマホを取り出して――シュッシュ。画面をタッチしスライドし、サーカスの公式サイトと思われる画面を突きつけてきた。俺は卵焼きを頬張りつつ適当に流し見る。
黒い背景のトップページには『MANGOKU CIRCUS』という金色のロゴが輝き、様々な演目の写真が一定時間でフェードアウトして入れ替わっていく。団長の一言やサーカスを見た客の感想。トピックスにはこの街での公演について書かれていた。
今週の土曜日。今日が水曜だから明々後日か。最初の公演は十時からだ。
「なんでも世界的に有名なサーカスらしくってさ。ほら、ネットの評価だと動物のショーが特にすごいんだって! 絶対生で見なきゃ損でしょ!」
「サーカス……動物ショー……」
頭が痛くなりそうな単語に俺はついしかめっ面をしてしまった。
「どったの? 卵焼きに殻でも入ってた?」
「そうじゃない。ちょっと嫌なことを思い出しただけだ」
まさか新しいサーカス団の立ち上げにオオカミとして協力してほしい、なんてお願いされているなど言えるわけがなかった。




