八匹目 オオカミくんと赤ヶ崎愛唯の事情
「どこに行った狩神狼太ッ!?」
來野の気配が遠ざかっていくのを、俺は閉ざされた狭い個室の中で感じていた。
「お、オオカミさん、ちょっと苦しいです」
「当たり前だ。掃除用具入れだぞ、ここ」
そう、俺と愛唯は來野から逃げるためにテキトーな空き教室に飛び込んで掃除用具のロッカーに隠れたのだ。いや馬鹿か俺は? 焦っていたとはいえ、こんなところに女子と一緒に閉じ籠るとか自殺行為以外のなんでもないぞ。
「つかお前まで逃げる必要全く全然これっぽっちもなかったよな!? 用具入れまで一緒に入りやがって!?」
「あはは、勢いでつい」
苦笑する愛唯の息遣いが生々しく聞こえる。くそっ、一刻も早く出たいが……まだダメだな。來野は近くにいる。
「な、なんだかドキドキしてきました」
「言うな! 頼むからなにも言うな!」
くそう、向き合う形で密着しているせいで愛唯の体温と柔らかさを直に感じてしまう。お互いに息が荒い。だが鼻で息をするな。イチゴミントが刺さるからな。この破裂しそうな心臓の音は俺のものか? それとも愛唯のものか?
冷静になれ。心を無にしろ。このままじゃオオカミ化してしまうぞ。
「ふわ、オオカミさん……その、息がくすぐったくて……ひゃん!?」
「だから変な声を出すなぁあッ!?」
アカン。
もうアカン。
咄嗟にロッカーから脱出したが、遅かった。
血が沸騰する。全身がむずむずと痒くなる。嗅覚が跳ね上がり、俺の制服にこびりついた女子の甘い匂いを思いっ切り嗅いでしまった。
変化が加速する。
ふさふさな黄褐色の毛が全身から伸びて……オオカミ化が完了してしまったよ。
「うぇへへ、えへへへぇ♪」
不気味な笑い声に俺はハッと正気づく。前方を見やると、ロッカーの中から愛唯がゆらりとゾンビみたいに歩み出て来るところだった。
「やっとオオカミさんになってくれましたね!」
愛唯の青い瞳がキランと妖しく煌いた。
「さあオオカミさん! もふもふタイムです!」
意味のわからない言葉を発して飛びかかってきた愛唯を、そうなる気がしていた俺はヒラリとかわした。
ビタン! と盛大にすっ転ぶ愛唯。
「ううぅ、痛いです……」
打ったらしい鼻を押さえて起き上がった愛唯は、キッと眉を吊り上げて俺を睨みつけると――すう。大きく息を吸い込んだ。
まずい!
「オオカミさん、〝伏せ〟!」
「うわっ!?」
昨日と同じだ。電流を浴びたような感覚が全身に奔ったかと思えば、オオカミ人間となった俺の体は命令に従って土下座のポーズを取ってしまう。
やっぱり昨日のアレは間違いではなかった。オオカミになっている状態の俺は、愛唯の言葉に、命令には逆らえない。
「そのままゴロンと仰向けになってください」
命じられるままに俺は仰向けに寝転がった。抵抗する意思はある。だが、あまりにも弱い。愛唯の言葉を聞かなければならないという気持ちの方が、なぜか強いんだ。
「なんなんだ、この力は……お前は一体なんなんだッ!?」
「言いませんでしたか? わたしは猛獣使いですよ」
転がった俺にじりじりとにじり寄りながら愛唯が言う。
「わたしのお祖母様が伝説の猛獣使いだった、というお話はしましたよね?」
屋上で聞いた話だ。
「お祖母様は言葉一つでどんな猛獣とでも仲良くなって、すごく楽しそうにショーをしていたのです。わたしがお祖母様から受け継いだのは髪や目の色だけではありません。その猛獣使いとしての才能もいただいていたようです」
猛獣使いとしての才能だと? それがこの強制力ある言葉だっていうのか? 馬鹿な。そんな超能力じみた力が……否定はできないな。
だって俺は現在進行形でその力を受けているんだ。それに動物が人に化けたりするんだぞ。人間にも不思議な力を持っている奴がいたっておかしくはない。
「最初はさっぱりできなかったのですが、お祖母様が日本にいる間に修行をつけていただきました。おかげで今ではどんな猛獣とでも心を通わせられるようになったのです」
「心を、通わせる……?」
確かに愛唯の言葉に従いたい気持ちの俺もいる。だがこれは、心を通わせるなんて可愛い表現じゃないぞ。ほとんど支配だ。
それは俺が完全な動物じゃないからかもしれない。俺の四分の三は人間だ。人間の時には言葉の強制力は働かなかった。オオカミ化して命令されても、俺の人間としての意識までは支配できないんだろう。
もし本当に動物を意のままに操れるとしたら、そしてそれが悪意ある人間に知られてしまったら、どんな犯罪に利用されるかわかったもんじゃないぞ。愛唯は自分の力の危うさをきちんと理解しているのか?
「それではオオカミさん、じっとしていてくださいね」
お願い口調で命令すると、愛唯はおもむろに俺の腹に跨ってきた。そして俺のブレザーのボタンを一つ、また一つと外していく。
「な、なにをする気だ!?」
「ですから、もふもふタイムです」
ブレザーが終わると次はワイシャツにまで手をかけたぞ。
「む、ボタンが毛に引っかかってなかなか外れませんね……」
え? なに? 俺、襲われるの? オオカミになった俺が愛唯を襲うんじゃなくて、その逆のことが今から起っちゃうの? 悲鳴上げるよ?
くっ、逃げようにも『じっとしていろ』と言われたから動けない。
「わたしはずっとずっと、オオカミさんになれる男の人を探していました」
引っかかったボタンに手古摺りながら、愛唯はどこか懐かしむような声でそう告げた。サーカスの相棒を探す……とはまた違うようなニュアンスだった。
「あれは猛獣使いになるって決めて、お祖母様もまだ引退前のサーカスで忙しかった頃です。わたしは、一人のオオカミさんに命を救われました」
「……命を救われた?」
なんか急に重い話になってないか? それに『一匹』じゃなく『一人』と愛唯は表現したな。つまりそいつが愛唯にオオカミ化するところを見せてしまったマヌケの一人だろう。
「近所の山で猛獣使いの修行をしていたのですが、まだ力を上手く使えなかったわたしは野良のわんちゃんたちに追いかけられて崖から落ちてしまったのです。そこをオオカミさんに変身した同い年くらいの男の子が助けてくれました。本当に、命の恩人です」
あれ?
その話どこかで……いや、そんなわけがない。そんな都合のいい話があるわけがない。
「今までいろんな動物さんをもふって来ましたが、あのオオカミさんのもふもふは今でも忘れられません! 思えばわたしが動物さんたちをもふもふしたいって思い始めたのはその時からですね」
なるほどその馬鹿野郎が愛唯をこんなヘンタイに目覚めさせやがったわけだな。近所と言ってたが、もし見つけたらぶん殴ってやる。
「もう一度会いたい。お礼を言いたい。もふもふしたい。わたしがオオカミさんを相棒にしたい理由のもう一つがそれです」
オオカミに命を救われたから、オオカミを相棒に選びたいということか? そういうことなら愛唯にとってオオカミは特別な動物になる。他を選ぶなんてあり得ないのだろう。
「あ、やっと外れました♪」
と、愛唯は布らしきなにかを後ろに放り投げた。
ん? アレは男子制服のブレザーと、ワイシャツにネクタイに……っていつの間にか上半身全部脱がされてる!
「ふぁ!?」
変な声が出た。オオカミの体なので毛で覆われているものの、これはぶっちゃけ上半身裸と同じだぞ。しかも女子に見られている。恥ずかしい! 帰りたい! あ、今の俺は全く動けないんでしたね。そうでしたね。
「わたし、もう我慢できません。もふもふさせてくださいッ! もふもふ! もふもふぅ!」
目をトロンとさせた愛唯が、顔を俺の胸に押しあててスリスリしてきやがった。手が物凄い勢いで体中を撫で回してくる。
「や、やめろ!? もふるな!?」
な、なんだこれ? 嫌なのに、だんだん気持ちよくなってくる俺がいるぞ。やばい、なんだこの快楽は……癖になりそう。
「うぇへへへ、やっとオオカミさんをもふれました♪ 最高です♪」
ダメだ! 心を強く持て俺!
屈するものか! 屈するものかぁあッ!
「この辺りから狩神狼太の声が……どこだッ!? どこにいる狩神狼太ッ!?」
すぐそこの廊下に、銀色の影。
「――あっ」
愛唯の気が逸れる。おかげで動けるようになった俺は一瞬の隙を突いて愛唯を押し退け、脱がされた制服を引っ手繰って床を蹴った。
走った方向は廊下側――とは反対側の窓。この空き教室は三階で正面には山しかないから誰かに見られる心配はない。窓を開けて下を覗く。よし、誰もいないな。
「ここか狩神狼太ぁああああああッ!!」
ドバン!
空き教室の扉がへしゃげそうな勢いで開かれ、來野セラスが突撃してくる。だがその時には既に、俺は窓から外へと飛び降りていた。間一髪。危なかった。あと数瞬遅かったらオオカミになった姿を見られていたぞ。
三階となるとけっこうな高さだが、オオカミ化して強化された脚力と筋力ならこの程度は問題にもならない。
「今回ばかりは來野に救われたな」
もう一度周囲を見回してひと気のないことを確認する。裏山の切り立った崖に面する校舎裏には、ウサギの飼育小屋だけがポツンと佇んでいるくらいだ。これがグラウンドとかの正面だったらアウトだったな。
「愛唯のあの話は……やっぱ、偶然だよな?」
記憶を薄ぼんやりと過ったのは、小学三年生の頃の夏休み。俺が初めてオオカミ化し、トラウマを刻むことになったあの日――
「痛っ……」
微かに頭痛がして首を振る。思い出したくない記憶に再び濃い靄がかかった。
飛び降りた窓を見上げる。愛唯が上手くやってくれているのか、來野がこちらを覗き込んでくる様子はない。
「気になるが、まずはこの体をどうにかしないとな……」
オオカミ化したままそこら辺をうろつくわけにもいかない。俺はウサギ小屋の陰に隠れて蹲り、オオカミ化が解けるまで時間を潰すことにした。