秋の山
< 遠野物語 段4 抜抄 >
栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。
この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥なる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳けずりていたり。顔の色きわめて白し。
不敵の男なれば直ちに銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。
そこに馳かけつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。
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山の神は女神だという。醜女だといわれている。
故に山の神は、女が山に入ることを酷く嫉み、厄をもたらすのだという。
兵六は、その女を撃った。
急所を撃てば倒れることに、人と獣の差はない。
手応えを感じ藪から立ち上がり覗くと、すでに絶命していた。心臓の狙いは違わなかった。兵六は仕留めた事を一瞥の元に確認したのち、すぐに山に戻り獣道に分け入った。
獣道の水場に待ち伏せ、多分、猪を一頭、何か小物二匹を逃した。今日はもうどうにも駄目だろうと思い、日が傾きかけたところで下山した。中腹の小屋に兵六の住まいがあった。
小屋には一人で住んでいた。山に好んで嫁ぐ里の女はいない。だから山の男には、里の娘を拐かして子を孕ませ、嫁にする者も少なくない。連れ子を殺した方が、女は呆けて抱きやすいと言う者もいる。自然、里の者に恨まれる。
二年前に死んだ母は、それだけはやってくれるなと常々言い、兵六は母の言葉をよく守った。小屋の隅には幾つかの遺品を収めたつづらの上に、簡素な白木の位牌がある。里との関係が平穏だった為、母の死の際には、里から坊主が来て経をあげてくれた。
簡単に夕餉を済ませ、久方ぶりに軒のかまどに火を入れた。秋が深まる前に湯浴びをしておこうと思った。たらいに湯を溜め、伸びるままに縄で結んだ頭髪を解いた。
頭を流しながら、照準の向こうで髪を櫛る女の髪をふと思い出した。この曲がりの強々とした髪とは違っていた。真っ直ぐで黒く光っていた。黒曜岩の断面が似た色だったろうか。
着ていた薄衣は、体を流れ落ちる乳のようだった。肩から胸を弾み腰に落ちていた。横から見た顔は額から頬にかけて白く柔らかそうだった。眉はどうだっただろう、唇は。
兵六は猟師として生きて長い。構えて撃つまでに時間を要しない。その短い記憶をかき集めていた。
体も湯も冷え、垢が水面に固まっているのに気づき、たらいから上がった。
草鞋を履き慣らしてから山に入るのが常だが、今朝はさらの草鞋をおろした。今は僅かに息が白いが、日差しは強い。午には暑くなりそうだった。
女の骸へ直登するには岩場から登らねばならなかった。兵六は何故女の骸に行くのかを自問した。
山の者が争い事に銃を持ち出すのは然程珍しいことではないし、兵六も人を撃つのは初めてではない。女を撃った事も一度あった。小屋を荒らした盗人夫婦だった。
獲物という不確実なものにすがって生きる猟師には、何より不確実が下振れするのが恐ろしい。産土神が祟れば山はおろか、里にも厄が及ぶだろう。女を撃ったのは正しい判断だった。骸など捨て置けば良い。
目の前の岩を攀じり坂を登り、少し休んではまた岩を攀じった。高度が上がる毎に大気は清浄なものへと変化し、汗が流れる毎に考えは明快になる。
骸などに一体何の用がある。
それは骸を見て確かめよう。それが用だ。
山におわす女神というものが如何なる者なのか見当もつかないが、山の大気の清浄を兵六は神性と解釈していた。
骸は撃たれたままの姿勢でそこにあった。
岩に腰掛ける女の左脇腹から入った弾は心臓に命中し、女は右に倒れその場で絶命した。
気道にも弾が通ったか、鼻と口からの大量の血が倒れた右に向けて流れ、流れた跡と右頰に血が凝っていた。
あまり見苦しいので、寝かせてやろうと動かすにも、骸は固く強張っていた。
せめてと水で濡らした手ぬぐいで血を拭ってやり、顔の強張りをほぐし目と口を塞いでやった、多少は安らいで見えた。
整った顔をしていた。
両の手には女の顔の肌の弾力があり、掌の体温が女の頬に伝わっていた。
髪が手の甲に触れると、部分的にまだ生きているような感覚を覚える。少なくとも髪は黒く美しいままだった。
骸にあまり触れるのは死穢の毒に冒される心配があった。不浄をここに据え置くのも問題だろうから、明日、せめて焼いて弔ってやろうと決めた。
下山の最中に蒸し暑い風が吹いた。宵の口から降り始め、夜半には激しい嵐となった。
戸に棒をつかえ、漏らぬ場所に床を移しながら、この嵐であのような薄衣一枚ではさぞ辛かろうと思った。直後、馬鹿な、と苦笑した。しかしあの突き出た岩場で風雨に吹き晒される女の骸を思うと、やはり哀れだった。
盗人夫婦を撃ったことを母が知った時、母は怒り強く詰った。兵六は撃つ以外の解決はないと考えていたし、何より母の身周り道具と少々の蓄えを取り戻すのが目的であったため、母の無理解に憤り、声を上げて怒鳴った。
母ははっとして黙り、幾刻か後に、兵六が父と似た顔と物言いをしたことを嘆いた。
人の血の染みた紅など要らぬと突き返された化粧道具も、何とは無しに母の遺品としていたが、それは母の意に沿わぬかも知れない。女の骸へ死化粧に少々呉れてやっても構うまい。
死化粧は母の死に際し一度見た。白粉を塗り、紅を差し、鉄漿を塗れば良い。相手は骸で見送るのは俺一人だ。下手でも問題なかろう。
人形遊びのようだな。再び兵六は苦笑した。この小屋に笑い声が聞こえたのは何時振りだったか。兵六は小屋の壁を見回し、ここに長く染み付いた過去を思い出した。
今朝もまたさらの草鞋を卸ろし、麻ではなく街着の木綿を着て山に向かった。岩で裂いたり汗で汚れたりせぬよう、ゆるやかな道から大回りで登った。
物も手間も惜しいが仕方あるまい。つまらぬ思いつきをしたのは俺だ。
里の者が頂の祠に詣でる時に歩く道だった。この道を歩いたのは何時だったか。獣の跡を追わず周りを見渡して歩くのは、もしかしたら初めてだったかも知れない。秋空の山の大気は、遠くを見渡すのに都合が良い。
女の骸は強張りが解けたと見え、岩から落ち地に伏していた。雨で血は流れたが、代りに土に塗れていた。
さっさと済ませよう。見た目を整え、薪を拾い、焼く。そして手を合わせてやれば十分だろう。
岩に骸をもたれさせ、髪を梳ぐと、髪にはまだ女の匂いが少し残っていた。
顔の泥を拭い、白粉を塗り死斑が覆われた。
唇に紅を差し、そこから手が動かなくなってしまった。
頬に紅を差せば生気が戻ってしまうような気がした。生気が戻れば美しさに圧され前に居ることは敵わぬと思った。
正視が困難なほど、美しい女だった。
しばらくの間、ただ見つめていた。
紅を差した指から、昨日とは異なり弾力が失われていた。
兵六は女の唇を押した。押した形に女の口が窪んだ。併せを解き、身体も拭いてやった。
この女が女であるのは今日で最後だろう。兵六は思った。女を抱くことにした。
身体の死斑はより濃く暗いものになっていた。
女と出会わずに女を喪うこと、喪った後に初めて抱くことを、不条理に思った。
せめて腐ちて人の形が終わるまで、そばに居てやろうと思った。女の袂を揃え髪を直し、次は母の遺品の香袋を添えてやることにした。すでに死臭は無視できぬほど強くなっていた。
香袋はよく母が胸に抱き香りを匂いでいた。悲しい時や気を紛らわす時にはよくそうしていた。
父が母を酷く打ち据えた日も、母は土間の隅で香袋を抱き泣き呻いていた。その晩、兵六は一睡も出来ず、翌朝父に狩りに連れ出された。
痩せ尾根を歩く父を後ろから突き落とし、父は下の沢まで転落した。そうせねば母が死ぬと思った。
しばらく尾根から見下ろしていたが、父は絶命していないようだった。
斜面には銃と、父が両指の又に挟んでいた数発の弾が散っていた。斜面を横にへずり歩き銃と弾を拾い集め、少し上流の沢に降りた。狙える距離まで低い姿勢で詰め、構えて撃ったが、外した。
父は背骨を折ったか、仰向けに動かずじっとこちらを見ていた。
二発目も外した。動く気配がないので、近くまでにじり寄った。言葉を交わせる距離だった。土気色の顔色の中に、目頭の黄色い目やにも見て取れた。
三発目は詰まって装填出来なかった。先込めは煤ですぐに詰まる。弾を叩き出しカルカで汚れを掻き出し、三発目を込めた。その間、父はじっとこちらを見つめていた。
照準の先の父はこちらを黙って見つめていた。何か話しかけられたら、撃っただろうか。沢の流れに消されて聞こえないことにしただろうか。手足が震え狙いが定まらなかった。
銃先を岩の上に預け膝をつき、左手を引き金に近いところに添えて撃った。まだ膂力が射撃に及ばない頃に、父に教わった撃ち方だった。
とどめの4発目には、煤を払って弾を込め、長く息を吐いてから立ち姿勢で撃った。こちらを向いていなければ、どうという事はなかった。
帰ると母は框に座り俯いていた。父が足を滑らせて死んだこと、崖下で遺体にはとても届かないが、幸い銃は拾えたこと、明日から自分が狩りをするので生活はどうにかなるだろうことを伝えた。
母は、打たれるよりよほど辛そうに、身を絞るように泣いた。父の死を悼んで泣いたのだろうか。
つづらから母の香袋を拝借した。まだ香りが立つならよし、立たねば炮烙で少し炒るか、それでも駄目なら蓬か木犀でも揉んで詰めよう。
香袋の中から小さな錦に包まれた臍の緒が出てきた。それが入っているのは、すでに知ってはいた。そしてそれがきっと兵六の物ではないことも、その事情もなんとなく今では分かる。つづらの中に返してやった。
どうにも今日は疲れてしまった。
夕餉を摂らずまだ日も沈みきらぬ時間に床に入った。
明日はきっと香を届けてやろう。良い香りは死者の慰めになる。
9月15日の市に兵六が里に下りて来ないのを心配してか、鹿革の在庫を心配してか、少しばかり懇意な職人が、兵六の山小屋へ倅を使いに寄越した。
小屋を開けると戸の前に、兵六はうつ伏せに死んでいた。銃を杖に立ち上がろうとした銃床の跡が、土間に刻まれていた。
隣の集落から坊主が呼ばれ、坊主の下知の元、寺男が薪を組み、戸板に骸を載せた。寺男共は猟師の血穢から流行り病を恐れ、頭と口に手ぬぐいを、刺し子の手覆いをはめて作業した。兵六は荼毘に付され、小屋も焼かれた。
煙は折からの颪に麓に向かって里へと靡いた。山に吹き上り山火が起こる心配のないことに参列者は安心した。青々とした空に真横に靡く煙から、人の焼く臭いのなか仄かに香の焚く香りがしたのを、彼らは不思議に思い、少し風情にも感じた。
やがて小屋の屋根も焼け落ち、残された弾に引火し十数発ほど炸裂した。ものの一刻で全てが灰になった。
炸裂音のみは山に届いたらしく、山向うの村から駐在が翌日捜査に来た。
秋の山の乾いた大気に、火薬の乾いた音はよく響いたのだろう。




