第九十四話 寒中水泳したのが間違いだった
亜人の森の湖のほとりで。
「はぁぁ……ふうぅ……はぁぁ……」
リクサは瞼をしっかりと閉じて、独特なリズムで呼吸を繰り返した。それにともない彼女の体がうっすら赤味を帯び、その肩から蒸気が立ち上り始める。
なんでも勇者の一族に伝わる発熱の呼吸法だという。効果時間が短いのでロムスの一件では使わなかったらしいが、今回のようなケースでは有効だそうだ。
俺も少しマネしてみたが、真冬の冷え切った空気を肺が取り込んだだけである。ま、そんなことだろうとは思っていたけど。
彼女が呼吸に集中しているのをいいことに俺はその水着姿を目に焼き付けた。いや、別に下心はない。部下の健康管理とかそういう感じの名目だ。
彼女に初めて会ったのは去年の春先くらいだが、あの頃から体型に変化はなさそうだ。見とれるほどに立派な白い双丘も健在である。
うん、今日もやわらかそうだ。こんなクソ寒い中でなければ永遠に見ていたいのだが。
「ではいきましょう、ミレウス様」
「おっひょ! そ、そうだね」
油断していたので変な声が出た。リクサはこれで邪まな視線とかには敏感な方なのだが、今日はまったく気づかなかったらしい。苦手な水泳を前に緊張しているからだろう。
「リラックスしなよ、リクサ。大丈夫。もし溺れそうになったら俺が必ず助けるから」
「ミ、ミレウス様……」
感激したように目を潤ませるリクサ。その純粋さに打たれ、さっきじろじろ見ていたことに罪悪感を覚えてしまう。
その視線から逃れるためではないが、俺は湖の中に足を踏み入れた。まずは踝の深さまで。
湖水は氷をそのまま液体にしたかと思うほどに冷たい。ちくちくと刺されるようでもあり、じんじんと痺れるようでもある。とにかく耐え難い。
しかし進まねば始まらない。足を前へ踏み出し、踝から脛、太腿から腰と徐々に深く入っていく。心臓の鼓動がやけにデカく聞こえるようになり、あ、これはヤバいな、と思ったところで寒さがふっと収まった。
聖剣の鞘の加護が発動したのだろう。こうなると普通に沐浴しているのと変わらなくなる。
「しかし後が怖いなー、これ」
まぁそれもいつものことだ。
俺は先のことはとりあえず忘れることにして、水面に顔をつけた。この小さな湖には流出する河川も流入する河川もないためか、透明度は非常に高い。底の方に小ぶりな魚が何匹か泳いでいるのが見え、ついでに少し横を向くと俺に続いて湖に入ったリクサの艶めかしい生足が見えた。
「どう? いけそう?」
水面から顔を上げて尋ねると、リクサは完全に余裕がない顔で前を向いたまま何度も頷いた。呼吸法が効いているのか水の冷たさについては全然堪えていないらしい。
「い、い、いきます!」
リクサは目いっぱい息を吸うと湖底を蹴って泳ぎだした。
泳法はいわゆる平泳ぎ。俺が最後に見たときよりか、いくらか様にはなっている。もちろん優雅とは程遠いが、ひょこひょこカエルのように顔を上げだり下げたりしてる様子はなかなか可愛らしい。
半ば溺れてるようにも見えるので不安にもなるが。
「宝箱の中身を取ってこいって試練なんだから別に行くのは一人でいい気もしてきたけど……王と共に試練を受けよ、だからそういうわけにもいかないんだろうな」
一人ぼやいて岸の方を振り返ると、デスビアが俺の指示通り焚き火を起こしているのが遠くに見えた。試練を突破したかどうか判定するのは彼女なのか、違うのか。いずれにしてもリクサを一人で行かせるわけにもいかないけども。
観念して俺も泳ぎだす。湖はすぐに足がつかない深さになるが、風は穏やかで湖面に波はほとんどない。リクサ本人は必死に泳いでいるつもりなのだろうが、まだ全然進めていないのですぐに追いつくことができた。立ち泳ぎでも十分ついていける速度だ。
「おーい、大丈夫かー?」
リクサが水面に顔を出したタイミングを見計らって声をかけると、彼女は死にそうな顔でこちらをちらりと見て頷いた。そのせいで息継ぎのタイミングがずれ、水を飲んでしまったらしい。
「げっほ! げっほ!」
「あ、無理に反応しなくていいから。泳ぐのに集中しな。声かけておいてなんだけど」
リクサはこれにも律儀に反応して頷くような素振りを見せた。そのせいでまた水を飲みかけたようだが。
それからしばらくは彼女が死に物狂いで泳ぐのを少しだけ距離を置きながら見守った。
勇者の試練とかいう大仰な名前の割にやっていることはただの水泳のテストだ。しかし出会った頃は完全にカナヅチだったこの女性がここまで泳げるようになっているというのは、少しだけ感動めいた想いが胸の内に沸いてくる事実だった。
カーウォンダリバーの足がつくような浅瀬でも溺れるほどだったのだ、この人は。
気が付けば小島までもう半分を切っている。
俺は思わず声を張っていた。
「頑張れ! 頑張れリクサ! あと少しだ! 負けるな!」
集中しているのか、それとももはやそんな余裕もないのか、リクサは反応しなかった。ただがむしゃらに目的地だけを見て手足を動かしている。
勇者信仰会が毎年全国各地でチャリティのために丸一日ぶっ通しでマラソンをするというイカれたイベントを行っているが、そのグランドフィナーレのことが脳裏をよぎる。公民館などに用意された会場に延々と走ってきたランナーがやってくるのだが、みんなで歌を歌って応援しながらそれを出迎えるのだ。
正直ちょっとバカバカしいし、意味あるのかこれ? と参加するたび思ってはいたが。
でも一生懸命頑張ってる人の姿が輝いて見えたのも、また事実だ。
今のリクサも、俺には眩しく見える。
声の限り応援し続けること、しばらく。
ついに彼女の足が小島のそばの浅瀬を踏んだ。二本の足でそこに立ちあがると茫然とした様子で荒い呼吸を繰り返す。
俺も浅瀬に到着したので立ち上がり、安堵の息を吐いた。もちろん自分のことではなく、リクサが無事にたどり着けたことへの安堵だ。
彼女は興奮顔で近寄ってくると両手で俺の手をがっしりと握ってきた。
「や、ややや、やりました! やりましたよ、ミレウス様!」
「ああ。よく頑張ったね」
「はい! ミレウス様のご指導のおかげです!」
よほど興奮しているのか、リクサはそのままぎゅっと抱き着いてくる。発熱の呼吸法というのはすごいもので、彼女の全身は懐炉のように暖かかった。
これも役得――と、その温もりとやわらかな感触を享受する。しかしあまりにも手加減なしに抱きしめられるので背骨が痛い。
「リ、リクサ、そろそろいいんじゃないかな」
「す、すすすすみません」
男冥利に尽きるシチュエーションではあったが、ついに音を上げてしまった。顔を真っ赤にして離れるリクサに、ごほんと咳払いをしてみせる。
「それじゃあ、お宝をもらいにいこうか」
「は、はい!」
俺達がたどり着いた島の大きさはこの小さな湖にふさわしい実にこぢんまりしたものだった。我が実家である宿屋『ブランズ・イン』が一軒建つかどうかくらいだろう。
小島には子供が雪で作ったりするかまくらのような祠が一つあるだけで、他には岩もなければ樹木の一本も生えてない。
祠の中に入ってみると、これまたこぢんまりとした祭壇のようなものがあった。そしてその上には黒革で装飾された指輪ケースくらいの小箱が一つ。
リクサがそれを手に取って、しげしげと眺める。
「これが宝箱……でしょうか。意外と小さいですね」
「開けてみなよ」
俺の目を見て頷いた彼女は慎重な手つきでパカリと開けた。
中に収められていたのは銀製と思しき飾り気のない鍵が一つ。
リクサはこれも手にとって、じっくりと観察をした。
「どこの鍵でしょう」
「普通の民家のものじゃないな。この後の試練で使うものかも」
「ああ、なるほど。ありそうですね」
納得顔で小箱に鍵を収めたリクサは俺に向き直り、かしこまって頭を下げてきた。
「改めてお礼をさせてください、陛下。泳いでいたとき、本当は途中で心が折れかけてたんです。でも、もう陛下に助けを求めて楽になろうって思ったとき、励ましのお言葉が耳に届いて」
「……ああ」
さっき俺が声を張ったのは無駄ではなかったのか。
「本当に、本当に嬉しいです。この試練を通して、大きく成長することができたと思います。ありがとうございました、陛下」
目尻に涙を浮かべて、声を震わすリクサ。
たかが水泳で大げさだな、と思わなくもないが、うん、やっぱり一生懸命やったことには大きな価値があるだろう。
ロイス=コーンウォールもまさかそんなことを子孫に教えるためにこの試練を用意したわけではなかろうが。
それはそれとして、俺はリクサに言わないとならないことがある。
「……感動してるところ悪いんだけどさ。帰りも同じ距離を泳いで渡らないといけないからね?」
リクサは壊れた家庭用機械のように硬直し、鍵と小箱を地面に取り落とした。
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【第二席 リクサ】
忠誠度:★★★★★★★★[up!]
親密度:★★★★
恋愛度:★★★★★★
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