第九十三話 エルフの試練を受けたのが間違いだった
コーンウォールの街から数刻ほど北西に歩くとウィズランド島で最大の森林地帯に行き当たる。この常緑樹の森はウィズランド王国成立前から亜人の森と呼ばれているが、その名に違わず主に人間の亜種――第一文明期に肉体改造された人々の末裔であるエルフとコロポークルが、それぞれいくつかの集落を築いて住みついている。
コーンウォール公に勇者の試練を受けると伝えた翌日、俺とリクサが訪れたのはその亜人の森の中にある名もなき小さな湖のほとりだった。
「で、あちらに見えるのがその小島デス。あの小島の祠にある宝箱から中身を持ち帰るのが、初代コーンウォール公が残した試練なんだそうデスよ」
妙な訛り方で説明してくれたのはエルフの若い娘だった。歳はたぶん俺より少し下。二百年前にロイスから第一の試練を執り行うよう依頼されたというエルフの集落が派遣した案内人で、名をデスビアという。
エルフには地元でも何度か会ったことがある。種族の特徴として風切り羽のような尖った耳を持ち、総じて美形。このデスビアも例に漏れず金髪碧眼の見目麗しい乙女であるが、エルフは肉体戦闘に特化した種族でもある。その筋力は普通の人間の倍ほどはあり、恐らくこの可憐な少女も、簡単に俺を撲殺できるくらいの力はあるはずだった。
静かな湖の水面を眺めて、げっそりしながらデスビアに確認する。
「魔術や魔力付与の品を使うのは禁止……なんだよな」
「はい。聖剣の鞘の加護についてはその限りではないそうデスけど」
「要するにこのクソ寒い中、魔術で飛んだりせずに泳いで渡れと。ははぁ、なるほどね」
俺は湖面に手を差し込み、その温度を確認した。当然のことではあるが、皮膚を刺すように冷たい。しかし凍結するほどではない。
「なんでこれ凍らないんだろう」
「地熱デスよ。この辺も温泉が湧きますので、凍らないギリギリくらいで水温が保たれているんデス」
「ふーん」
ウィズランド島は海底火山が隆起してできたという伝説がある。そのためあちこちで温泉が湧くが、今はそのことを呪いたい気分だった。
白銀の長い髪を動きやすいように結ったリクサが毛皮のコートを脱ぎながら、緊張と祖先への畏敬の念が半々くらいの面持ちで語る。
「ロイス=コーンウォールは私と同じでカナヅチだったそうです。きっと子孫が泳げるようになるように、このような試練を用意したのでしょう」
「いや、泳ぎがどうこうってより、寒さの方でしょ、問題は」
そもそもロイスは冬に試練を受けさせろと指定してあったそうなのだ。そのためエドワードからリクサのところに招待の文が届いたのがおよそ二カ月前――冬の初めだった。要するにロイスは最初から寒中水泳させる気満々だったということである。
しかも誰かさんがゴミ山に郵便物を放置したおかげで、こうして真冬に受ける羽目になって、更に過酷になってるし。
「このクソ寒い時期に寒中水泳なんて洒落こんだら、それこそまた心臓が止まりかねないぞ……」
小声で毒づく。数か月前に最貧鉱山で心臓麻痺を起こして死んだときのことが脳裏をよぎる。あの時はシエナに蘇生魔法で助けてもらえたが、今回、彼女は近くにいない。
「スパルタとかってレベルじゃないだろ……ロイス=コーンウォールは狂人なのか?」
「え? ミレウス様、何か仰りましたか?」
防寒着を脱ぎ捨て水色のホルターネックタイプのビキニ姿になったリクサは準備運動のようなことをしていた。もちろん彼女に聞かせる気があった愚痴ではないので、適当に誤魔化しておく。
あの水着には見覚えがある。南港湾都市の浜辺で遊ぶときにラヴィが選んで購入したものだ。俺の故郷オークネルで夏休みに水泳教室をやった時にも着用していた。シースルーの腰布がセットのはずだが、今回は泳ぐのがメインなのでつけていない。
あの夏の時点では、リクサは一人で満足に泳げるようにはならなかった。あれから王都のプールでも何度か指導してやったし、彼女も一人で自主練を何度かしたそうだが、果たして泳力はどれほど伸びているか。
祠のある島までは大した距離ではない。そもそも湖自体小さいのだ。目算だが、泳ぎに長けたものであれば疲れを感じる前にたどり着けるくらいだろう。
「なぁ、デスビア。あの祠は二百年前からあるのか?」
「そうデス。初代コーンウォール公の頼みでうちの集落の祖先様が建てたそうデス」
「宝箱もその時からあると」
「いえ、それは陛下たちが試練を受けると聞いて今朝アタシが船で渡って置いてきたんデス。ずっと集落で保管してたんデスよ」
「なーるほど」
あんな小島に放置しといたら誰かに盗まれるかもしれないしな。
俺も覚悟を決めて防寒着を脱ぎ、水着姿になる。当たり前だが馬鹿みたいに寒い。というか馬鹿だ。こんな季節に水の中入ろうなんて。
「デスビア、頼む。ここで焚き火を起こしておいてくれ。戻ってきたとき、すぐにあたれるように」
「了解デス、陛下」
「それとこれを盗られないように持っておいてくれるか。一応貴重品だし」
と、聖剣を鞘に入れたまま差し出す。
彼女はそれを受け取ると、目を丸くして飛び上がった。
「わ! これ、聖剣と聖剣の鞘デスよね! こ、国宝だぁ!」
「ああ、私のこれも預かっておいてください」
リクサも愛剣を手渡す。
これまたデスビアは興奮した様子を見せた。
「天剣ローレンティア! じゅ、重要文化財! あ、あの、剣身見てもいいデスか?」
俺とリクサが頷いたのを確認すると、デスビアは震える手で順番に二つの剣を鞘から抜いた。
そしてそれらの剣先から手元までをうっとりした顔で見つめる。
「綺麗デスねぇ……」
聖銀で作られたリクサのローレンティアはともかく、俺の聖剣の十二に分かれた蛇腹のような形状の刃は綺麗とは言い難いと思うが。
「ローレンティアは斬りつけた対象に猛毒を送り込む追加効果があるんデスよね」
俺は初耳だが、本当らしい。リクサがその整った眉をぴくりと上げる。
「お詳しいんですね」
「アタシ鍛冶屋をやっているんデス。だから刀剣には目がないんデスよ」
「鍛冶屋? もしかして、デスパーの?」
「はい。妹デス」
それでですか、と納得した表情のリクサ。
デスパーという名前に聞き覚えはあった。確か、現在絶賛行方不明中の円卓騎士団第十一席の名だ。そういえば前にエルフの男性だと聞いた覚えがあった。確か職は[最上鍛冶師]だとか。
せっかくだからとデスビアが手を挙げてリクサに尋ねる。
「あの、兄はまだ王都に帰ってきてないんデスか?」
「え、ええ。申し訳ありませんが」
「いえ! 悪いのは兄デスからお気になさらないで欲しいデス。実は滅亡級危険種と戦って戦死した、とかではないんデスよね?」
俺とリクサはハッと息を呑んで顔を見合わせた。
デスビアは口元に手を当て、クスクスと笑う。
「ああ、アタシもこの試練の案内人の役目を継承したときから後援者の末席に加わったので責務についても知っているんデスよ」
「ああ、そうだったのですか」
「ホントのこと言うと、あの兄がそう簡単に死ぬとは思ってないデス。どっか適当なところほっつき歩いてるんデスよ、きっと」
あっけらかんと言ってのけるデスビア。実の兄が行方不明だというのに、薄情というか淡泊というか。まぁ兄の失踪について、同僚である俺達を責めたりする気がないのはいいことだけど。
曇天模様の空を見上げる。時刻は昼過ぎだ。今がたぶん一番マシな水温だろう。
俺もリクサに倣って準備運動をすると、デスビアに念を押した。
「それじゃ焚き火の件、頼んだよ。できるだけ火力強めにしておいてくれると嬉しいな」
「はい! お任せあれデス! ……あ、そうだ」
俺達が湖の際へ歩き始めたところで、デスビアがポンと手を叩いた。
「あのー、お二人とも、握手してもらっていいデスかね?」
意外とミーハーらしい。
握手をしてやるとデスビアは無邪気に喜び、そして満面の笑みで俺達を送り出してくれた。