第八十九話 歌を聞いたのが間違いだった
酷い寒気と奇妙な暖かさの狭間で。
夢を見た。
荒廃しきった大地が見下ろせる、なだらかな山の斜面。そこを薄汚れた白衣の一団が登っている。
この地形には見覚えがあった。恐らくロムス山の中腹だろう。
一団の先頭を行く人物は、イスカの小さな体を大切そうに両手で抱えている。
イスカはその手の中で、安心しきった巣穴の栗鼠のように体を丸めて眠っていた。
この夢はどの時代のものだろうか。
統一戦争の時代か? いや、それより遥か以前か。
一団は奇妙な抑揚の言語で歌を歌っていた。
恐らく第一文明語だと思う。歌詞の意味は分からないが、その優しい歌声から歌っている意図は伝わってくる。
これはイスカに向けた子守歌だ。
安らかなる眠りを祈る歌。
以前イスカは、終末戦争で大きな損傷を受けたため、ロムスの地下に封じられたと話していた。これはその時の記憶なのではないだろうか。
ただ、聞いていたのとはだいぶ印象が違う。
彼女を連れている白衣の一団には感謝と慈悲があった。
封印というよりも、傷つき、疲れ果てた少女に、しばしの休息を与えるかのようだ。
歌は続く。
ロムスの山の青空に染みわたるように。
歌は続く。
少女に幸福な未来が訪れることを祈るように。
ロムスは第一文明語で『祈りの地』という意味である。
そのことを俺は思い出した。
歌は続く――。
☆
夢の中から現実へとゆるやかに浮上しても、歌はまだ続いていた。
これはイスカの声だ。どこまでも澄んだ声で、独唱している。
俺の背中の下には確かに大地があった。しばらくぶりの母なる大地が。
どうやらまた誰かに膝枕をしてもらっているらしく、頭の下にはやわらかな膝の感触があった。
「シエナ……いや、これはブータかな?」
膝の厚みからなんとなく推測して瞼を開けると、案の定、眼前にあったのはコロポークルの少年の丸っこい顔であった。他にも俺を心配するように覗き込んでくる仲間たちの顔がいくつか。
どうやらロムスの街の中央広場にいるらしい。イスカの背に乗って飛び立ったあの場所に俺は帰ってきたのだ。
「膝枕はありがたいんだが……なんでブータなんだ? いや、不満があるわけじゃないんだけど」
コロポークルらしい華奢な膝をぽんぽん触りながら尋ねると、ブータは照れながらも胸を張った。
「実は幸運にもジャンケンで勝ちましてですねぇ」
「……そんなことしたのか。まぁいいけど」
苦笑交じりに礼を言って上半身を起こすと、近くの岩場の上でイスカが空を見上げて、没入するように歌っているのが目に入った。
竜――いや、鳥のようであった“肉体”の外装をすでに解除されており、いつもの少女の姿に戻っている。誰にもらったのかマントを一枚羽織っているが、身につけているのはそれだけだった。
彼女の背中には天使のような三対、六枚の白い翼が生えている。『ロムスの百年雲』と呼ばれていた太陽電池のパーツは、普段はあのような形で収納されるらしい。
[熾天使]というのが初代の連中がつけた彼女の職の名前だが、なるほど、言い得て妙ではあった。
「綺麗な歌だな……」
しばし聞き入り、俺はぽつりと漏らした。
イスカが歌っている歌は夢の中では子守歌のように聞こえたが、今は鎮魂歌のようにも感じられた。
もっとも祈りの歌であることには変わりない。その対象が先だった人々へと変わっただけのこと。
それは第一文明期の仲間たちに向けたものなのか。
初代円卓の騎士たちに向けたものなのか。
あるいは彼女が生きた二つの時代の戦争の犠牲者たちに向けたものなのか。
きっとそのすべてというのが正しいのだろう。
彼女の人類への慈愛は分け隔てのないものだ。それこそ、本物の天使のように。
「しっかし、なんだか体がだるいな。あんな環境にいたからかな」
鉛のように重くなった肩を回しながら、ぼやく。聖剣の鞘によって先延ばしにされていた低温、低酸素、低気圧は気絶してる間に過ぎ去ったようだが、病み上がりのような妙な疲労感がある。
軽く回復魔法でもかけてもらおうかとシエナを探すと、彼女は脇の方で大きな岩にぐったりともたれかかっていた。
「ん? どうした?」
「みーくん、また死んでたんだよ!」
答えたのはシエナではなく、俺の隣で正座をしていたヂャギーだった。
「地上に戻ってきた頃にはもう体がヒエッヒエで出血もすごくて心臓も止まってたんだ! それでまたしーちゃんが蘇生魔法かけたんだよ!」
「……あー、うん、把握した」
このだるさは蘇生魔法についている体力低下の副作用か。背中に手を回して調べてみると、ぱっくり開いていたはずのそこの傷も塞がっていた。
「まーた助けられたみたいだな、シエナ。ありがとう」
俺が頭を下げると、彼女はふらふらになりながらもこちらを向いて会釈を返してきた。
「あ、あの、主さま……何度も成功するとは限らないので、できれば死なないでいただけると嬉しいです……。いえ、主さまも死にたくて死んでいるのでないのは分かるんですけど……」
シエナはそれだけ言うと、一瞬白目を剥いて、そのまま気絶してしまった。魔力切れの昏睡だろう。
つくづく申し訳ないなと思うと同時に、感謝の念が沸いてくる。しかし彼女も言ったとおり、俺も別にわざと死んでるわけではないのだ。
「ま、成層圏に生身で長時間いりゃあ、そうなって当然だわな」
腕組みをして立っていたナガレが、呆れたような顔をして俺の頭を指で小突いてくる。
「他に手もなかったし、オレも止めなかったけどよ。リクサなんて下で待ってる間ずっと泣いてたんだぜ」
「な、泣いてはいません! その、もちろん心配はしていましたが!」
へたりこむように座っていたリクサが声を荒げて否定する。しかしその目元は薄っすら赤くなっていた。
「あの、ミレウス様。肝心なときにお力になれず申し訳ありません。私はやはり臣下失格です」
消え入りそうな声でそう呟いて、土下座に近い形で頭を下げてくるリクサ。俺はそれを慌てて押しとどめた。放っておくと切腹でもしそうな勢いだったからだ。
「いやいや、リクサたちも十分働いてくれたよ。みんなで翼を破壊したのが効いてたから、最後のイスカのブレスも当てやすくなったと思うし」
「……そうでしょうか?」
いまいち納得していない顔のリクサ。ホントホントとその肩を叩き、彼女の後ろに立つ二人に目を向ける。
「こいつらもリクサの一割くらいでいいから、謙虚さや忠誠心を持ってくれたらいいんだけどな」
無論、こいつらというのはヤルーとラヴィである。俺の言葉は聞こえなかったのか、二人は顔を見合わせ得意げに笑っていた。
「俺っちたち全員で掴んだ勝利だよな、これは」
「うんうん、アタシたちもしーっかり働いたよねー。特別ボーナスもらってもいいくらいだと思うなー」
期待の眼差しを向けてくる二人。
「……きちんと役割を果たしてくれたのは事実だし、考えてはおくよ」
適当に答えると、二人は歓声を上げてハイタッチをした。
もちろん考えておくだけで、実際に何かする気は毛頭ない。
そのうち広場の脇の坑道入り口から、地下へと避難していたロムスの街の住民たちがぞろぞろと出てきた。彼らは頭上から降り注ぐ暖かい日差しに一様に不思議そうな顔をすると、手をかざして空を見上げ、そして揃って唖然と口を開けた。
「ひゃ、百年雲が……消えてる……」
もっと騒ぎになるかと思っていたが、案外静かなものである。この街では百年もの間見ることのできなかった青空が頭上に広がっているのだから、言葉を失うのも無理ないが。
どう言い訳したものかと俺が今さら考えていると、住民たちが歌声に惹かれて岩場の方へと目を向けた。その視線の先にいるのは、どう考えても普通の人間には見えない姿になったイスカ。
不味い、今度こそ騒ぎになる――かと思いきや。
「お、おお……なんと神々しい」
「天使様だ……あの子は天使様だったんだ」
住民たちは各々が自発的に膝をつき、感動に打ち震えながら両手を合わせてイスカを拝み始めた。
この街の住民はそのほとんどが屈強な鉱員だ。それが揃って半裸の少女を崇めるというのもなかなか異様な光景ではあった。
と、若干引き気味に見ていると、住民たちは突如お祈りをやめて、俺の方に走り寄ってきた。
どいつもこいつも興奮顔なので、圧が凄い。
「も、もしや百年雲が消えたのは、あの子が!?」
「あの子が奇跡を起こされたので!?」
「あー、うん、そう。あの子……イスカと俺がやった。聖剣の力を借りてな」
おおおおお! と、野太い声でどよめく広場。
広い意味で考えればけっして嘘をついたわけではないのだが、ほんの少し罪悪感はある。
しかし天聖機械だとは気付かれていないようだし、まぁいいか。
「これでこの街も人が増えるぞ!」
「ミレウス陛下ばんざーい!」
「イスカちゃんばんざーい!」
この街に来た初日以上の盛り上がりを見せる広場。
その喧噪の中、彼らと共に避難していたエルとアールが俺の元へやってきた。
「さすがは円卓の騎士の皆様!」
「街の危機を救い、街の長年の頭痛の種を解決し、街の人々の心もがっちりキャッチ!」
「さすが! さすがですよ!」
最後のは二人でハモった台詞である。
エルとアールはひとしきり俺たちのことを褒めちぎると、ヂャギーの手当てを始めた。まったく平気そうにしてたので忘れていたが、そういえば彼はスキルの副作用で全身傷だらけだった。
そして最後にアザレアさんがやってきた。監督者の責任として、避難場所に誰も残っていないか確認してからきたのだろう。
「みんな無事でよかったよ」
心底ほっとしたように微笑んで手を差し伸べてくるアザレアさん。その手を取って立ち上がる。
すると、服の背に空いた大穴とその周囲に付着してる多量の血痕を見咎められた。
「……これ、大丈夫だったの? ミレウスくん」
「いや、案外たいしたことなかったんだよ。聖剣の鞘の加護のおかげでゆっくり戻ってきたから、傷が大きくなる前に治してもらえたし」
これもまたけっして嘘をついたわけではないが、この街の住民たちほどアザレアさんは単純ではない。いくらか疑いの眼差しを向けてきた。しかしとりあえず生きてはいるので問題ないと思ったのか、それ以上は問い詰めては来ず、ただ一度だけ軽く抱擁をしてきた。
彼女の背に腕を回して、心の中で謝る。
心苦しいが、俺がうっかりまた死んだことは秘密にしておこうと思う。
そこでイスカの歌がぴたりと止んだ。ロムスの住民たちの視線が一斉に岩場の上の彼女の元へと注がれる。
それを不思議に思ったのかイスカは小首を傾げた後、住民たちに向けて大きく手を振った。
湧き上がる歓声。住民たちの足踏みで震える広場。
さながら偶像のショーかなにかのようである。
イスカは岩場からぴょんと飛び降りると、俺の元へ走ってきて、きょとんとした顔を向けてくる。
「みれうすー。なんで、みんなよろこんでるんだ?」
「雲を消してくれたことを俺達に感謝してるんだよ」
「んー? ……え? もしかして、イスカのくも、めいわくだった?」
かつてその雲であった白い六枚の翼をぴくぴくと動かして、目を丸くするイスカ。相当意外だったらしい。
「そっかー。かんがえてみるとそうだなー。……な、なんだかもうしわけないなー」
イスカはしばしうな垂れた後、ロムスの街の住民たちの方を向いた。彼女が何かを言う前に、俺は慌ててその口を手でふさぐ。
「べ、別に気に病む必要はないと思うぞ。不可抗力だったんだし、別に死人が出たとかじゃないし。イスカはそれ以上の功績もあるしな」
たぶんイスカは正直に謝罪しようとしていたのだろう。だが、ここで彼女の正体が露呈するようなことを言わせるのは不味い。
噛まれる前に、彼女の口から手を離す。
「それに……あれだ。もし申し訳ないと思うのなら、これからしっかり円卓の騎士として働いて罪滅ぼしすればいいさ」
「そっか! そうだな!」
イスカは白い歯を見せてニカッと笑うと、少し屈めと言う風にちょいちょいと手招きをしてきた。
なにか内緒の話だろうか――と、言われたとおり背中を曲げ、彼女の目線の高さに合わせる。
がっしりと両頬を掴まれ、固定される俺の頭。
近づくイスカの顔。
その両眼の瞼は硬く閉じられていた。
「ちょ、ちょっとま」
待て、と言い切る前に、イスカの小さな唇が俺のそれと触れ合っていた。
いつの間にか全員に注目されていたらしく、広場がしんと静まり返る。
離れるイスカの満面の笑み。そこには悪気も照れも見られない。
「い、いいいいったい、なにを!?」
哀れなくらい動揺してリクサがイスカに詰め寄る。
イスカの方はというと特にどうという風でもなく、ニコニコ笑いながら今度はそのリクサに飛び掛かる。
「しゅくふくのキスだぞー。リクサにもしてやろうかー!?」
「ま、待ってください! 待って!」
滅亡級危険種との戦いでもついぞ見せたことがないような顔をして、一目散に逃げ出すリクサ。周りの円卓の騎士たちはそれを見ながらゲラゲラと笑っていたが、リクサを逃したイスカが新たな標的を探し始めたところで、これはヤバいと蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
ロムスの街の広場で、鬼ごっこが始まる。
「ハハハ……」
すでにタッチ済みの俺は、高見の見物といくことにした。
ロムスの街にイスカの笑い声が弾ける。
あの子は強い。
過酷な戦いと幾多の別れを経てもなお、ああして笑っていられるのだから。
きっとこの時代でも、新たな仲間たちと上手くやっていけることだろう。
本物の天使もかくやというほどに眩しいその無垢なる笑顔を見て、俺はそう確信していた。
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【第八席 イスカンダール】
忠誠度:★★★★★[up!]
親密度:★★★★★★[up!]
恋愛度:★★★★★[up!]
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この第八十九話を持ちまして第三部は完結になります。
次からは第四部(と、その前の幕間)に入ります。
作者:ティエル