第八十八話 ブレスを吐かせたのが間違いだった
そう、俺は選定の聖剣エンドッドを引き抜いた男だ。その装備効果で単独限定の特別職、[極王]という職にも就いている。
単独限定は文字通り世界で一人しか就けない職であるということ。
特別職は始祖勇者が職業継承体系を完成させて以降に他の誰かが追加で登録した職であることを意味している。
[極王]の職を追加登録したのは聖剣の製作者たち、つまりは初代円卓の騎士たちで間違いない。
イスカと共に行動している内にそのことを思い出した俺は、彼女もまた、初代の連中が登録した特別な職に就いているのではないかと考えはじめた。天聖機械が職を得るというのもおかしな話だし、本人に聞いても身に覚えがないと返されはしたが、俺には確信めいた予感があった。
そして十日ほど前、エルとアールに頼んで王都から取り寄せってもらった職業解析盤と呼ばれる魔力付与の品で調べてみると、俺の読みどおり、やはりイスカも単独限定の特別職に就いていた。
その名も[熾天使]。
[極王]は職として名前が登録してあるだけだったが、[熾天使]には一つだけだがスキルも登録されていた。
【浄化の息】。つまりイスカの吐くブレスがスキル化されていたのだ。
スキルであるならば、恋愛度を消費して発動させる聖剣の切り札の一つ、技能拡張を適用できる。というよりも技能拡張が使えるように、わざわざ特別な職を用意してスキル化しておいたと言う方がきっと正しいのだろう。
いつの日か、再生を終えたイスカが目覚めて、再び円卓の騎士となることを初代の連中は見越していたのだ。
「イスカ。全力でブレスを吐いてくれ。俺がその威力を増幅するから」
『ぞーふく?』
「聖剣の力だ。統一王……アーサーたちがこの日のために用意してくれていたんだ。初代の奴らは君のことを、本当に大切に思ってたんだな……」
俺達の間に、しばしの沈黙が漂った。
イスカは首をもたげて、星の海の方にその視線を投げかける。
その胸にいかなる感情が去来しているのかは分からない。眠りについてから二百年の時が経ち、かつての仲間たちがもういないことを悟った時、彼女は声を上げて泣いていたが――。
やがてイスカは静かに告げた。
「おとーさん。ふたりであのこをとめよう。ふたりなら、きっとできるよ」
「ああ」
俺はイスカの背で立ち上がると、聖剣の剣先を天へと向けた。そして聖剣に秘められた技能拡張の力を解放し、イスカと精神を同期させていく。
手順は以前、南港湾都市でブータと同期したときと同じ。しかしその過程はまったく別だった。
共有されたイスカの五感は、人間のそれとは明らかに異なっていた。
天聖機械が見ている世界。
それはほんのちっぽけな水の粒子の一粒さえも感じ取れる世界であり、人間の知覚外の波長の電磁波を視認できる世界であり、人間には聞き取れない周波数の音が聴きとれる世界だった。
あまりにも膨大な情報量。
しかし不思議と煩わしさは感じない。
共にあるべき存在だからか、イスカが纏っている“肉体”の波動も自分のことのように感じられた。
更なる高度にいる、もう一体の付属パーツの波動も。
“精神”は星の海と“月の下の大地”の境とも言えるあたりで静止していた。心を静め、降下に備えているようだ。
イスカの知覚は、“精神”の地上からの高度をおよそ十万と測定している。その単位は分からないが、俺達がいるここの高度は一万前後とのことなので、とにかくもっとずっと上の方にいるということだ。
やがてイスカとの精神同期は更に深化していき、彼女の思考がダイレクトに伝わってくるようになった。それは同時に俺のこの思考も彼女に伝わっていることを意味する。
彼女の心の内は驚くほどに静かだった。
感情のままに動いているような普段の様子からは想像もできない、静寂の精神。
それは戦闘兵器たる天聖機械であるがゆえなのか、あるいは数百年、数千年の時を経てきたからなのか。
いずれにしても、これ以上俺が彼女に何かを言う必要はなかった。
むしろ彼女と繋がったことで俺は自分の精神がいかに波打っているかを悟り、その未熟さを恥じた。
彼女に合わせるように心を落ち着け、その時を待つ。
上空から伝わる波動。
そこに揺らぎが生じる。
“精神”の落下が始まったのだろう。
まっすぐに、不退転の意志を示すように、どこまでもまっすぐに落ちてくる。
その速度はすぐに音速を超え、なおも加速し続ける。
およそ十万あった距離はすぐに半分になり、そしてまたすぐにその半分に。
イスカの額に生えた角が輝きを放ち、その口からは純エネルギーの白い光が溢れだす。
俺は彼女と共にブレスを吐くような気持ちで、そこに一つの意志を添えた。
イスカの体内にため込まれた尋常ならざる量のエネルギー。それが聖剣の力で十重に二十重に増幅されていく。
今回は無駄打ちがなかったので、技能拡張に費やせる恋愛度は十分にあった。“精神”の核を破壊するのに必要な威力に達しているのは、もはや疑いようがない。
ブレスの範囲は最大に設定してある。
あとは当たるかどうかだけ。
「いくぞ、イスカ!」
叫び、聖剣の柄を握る手に力をこめた。
ついに俺自身のこの目が、落下してくる“精神”の姿を捉えた。豆粒程度に見えたその大きさは、あっという間に膨れ上がる。恐ろしい速度で近づいているのだ。
時の流れが、にわかに緩やかになるような感覚。
その中で、俺は迷うことなく聖剣を振り下ろした。
イスカの口から極大の光の柱が放たれて、雲の上の無人の世界を縦に貫く。
瞬間、俺たちのありとあらゆる感覚器官がダメになった。
光と音。熱と電磁波。あまりにも激しいノイズ。
イスカの放った【浄化の息】は俺の想定を遥かに超える威力だった。
当たっているのか。
当たっているはずだ。
イスカとの同期はすでに切れていた。“精神”の波動も、もう感じ取れず、成否が確認できない。
だが、もしも外していたのなら、俺達は落下してくる“精神”に吹き飛ばされているはずだ。
そうなっていないということは――。
「……やったか?」
こんな台詞を吐くと、逆に倒せていない証拠のような気がしたが。
『うん。スピルもイスカのなかにもどってきたぞー。おとなしくなってねてるー』
頭の中でイスカの声がする。どうやら無事に撃破できたようだ。
ほっと安堵の溜息を吐く。
それからまず視界が回復していき、続いて残りの五感も元に戻ってきた。
俺達がいるのは、ブレスを吐く前と何も変わらない空の上。
聖剣を握っていた手が震えている。
『やったね、おとーさん』
声を弾ませてイスカが振り向く。
俺はそれに答えるために笑みを作ろうとしたが、引きつったような、どうにも不自然なものになってしまった。
強い疲労感が全身を襲っている。技能拡張の反動なのか、全力でブレスを吐いたイスカに影響されたからなのか。
「なんか思ってたよりだいぶ火力あったな」
『ひゃくねんかけてためこんだの、ぜんぶだしたからなー』
「節約できたらよかったけど……ま、足りなかったら不味すぎる状況だったからな」
しょうがない、と肩をすくめたところで、俺の背中に激痛が走った。
体が二つに裂かれるような未経験の痛み。思わず俺は体勢を崩し、その拍子にイスカの背から落下した。
当面の脅威が去ったことで、聖剣の鞘が先延ばしにしていた先ほどの戦闘のダメージが戻ってきたのだろう。
《飛行魔術》で落下を制御しなくてはと焦るが、背中の激痛に邪魔されて空を飛ぶ姿を上手くイメージできない。重力に引かれるまま、一直線に俺は落ちていく。
『おとーさん!』
懸命に追ってくるイスカ。しかしその姿は俺が『ロムスの百年雲』に飲み込まれたことで見えなくなった。
再びの白一面の世界。
先ほどイスカの背に乗って登ってきたその場所を、今度は延々と自由落下していく。
視界に変化がなくなると途端に意識を維持するのが難しくなった。
痛覚の許容量を超えたのか、背中の痛みは痺れに変わり、同時に甘やかな睡魔が訪れる。
まるで天国にいるかのような錯覚。
このままだと本当に天国行きになってしまうが――。
その時、俺を追いかけて降下してくるイスカの姿が再び目に映った。周囲の『ロムスの百年雲』が急速に薄れてきたためだ。
雲が薄くなったのは、イスカに吸い込まれているからである。吸い込まれた雲は凝縮して白い羽毛に変わり、イスカの竜のようなその全身を覆っていく。
最初から彼女は何度も言っていた。
自分は竜ではないと。
白い翼の鳥。
それが彼女の正体。そのことも俺はもう知っていた。
共に見た夢の中で、終末戦争を戦う彼女はこの姿をしていたからだ。
この白い羽は“精神”たちのような独立思考型の付属パーツではない。彼女本体に最初から備わっていたものだ。彼女によればブレス用のエネルギーを生成するための太陽電池であると共に、本体が許容量以上のダメージを受けた場合に緊急切除するためのダメージコントロールパーツであるらしい。
ロムスの地下で仮死状態で眠っている間に精神を侵食されるような悪夢を見たイスカは、この羽を切り離して本体にそれ以上のダメージが及ぶことを防いだ。それが今からおよそ百年前。羽は微細な白粒子形態となって空に展開し、『ロムスの百年雲』となった。
同じように悪夢によるダメージを受けた“精神”はイスカの元を離れ、もっとも安心できるという場所――百年雲の中をその寝床に選んだ。
これがイスカが失っていた記憶のすべてであり、ロムスの地下と空で起きたことの顛末である。
二つの付属パーツが揃ったことで、展開していた羽も元に戻すことができるようになったのだろう。本来の姿を取り戻したイスカは今まで以上の速度で空を翔け、そしてついには俺に追いついた。
その口で優しく俺を咥えあげ、イスカが笑う。
『ミレウスのことまもるってやくそくしただろー!』
ロムス山の山頂でしたあれのことだろう。この子もなかなか律儀な奴だ。
「ありがとう、イスカ」
俺も律儀に礼を言う。同時に凄まじい寒気と眩暈が襲ってきた。百年雲を上る途中から先延ばしにした体調不良が返ってきたのだ。
すでに百年雲は完全にイスカに吸収されて姿を消しており、眼下にはウィズランド島の大地が見えた。
それと俺達の元へ駆け付けようと飛んでくる仲間たちの姿も。
もう、大丈夫だろう。
どっと安心した俺は意識をつなぎとめる努力を放棄した。