第八十七話 雲に突入したのが間違いだった
「よっしゃよっしゃ、いけんぞミレちゃん! このまま決めちまえ!」
形勢が傾いたと見るや、手を叩いて調子のいいことを言いだすヤルー。
しかしそのニヤケ顔は、すぐに固まった。“精神”が顎を目いっぱい開いて奴の方に飛んでいったからだ。
「待て待て! 俺っちなんもしてねえから! やったの主にミレちゃんとリクちゃんとヂャギちゃんだから! 俺っちはちょっとスピルちゃんと遊びたかっただけだから! 完全にお門違いだって!」
慌ててそんな言い訳をしていたが、ちゃっかり闇精霊を使って《闇分身》を自身にかけるのを俺は見逃さなかった。一度だけだが物理攻撃を完全に無効化する魔法だ。
ブレスを使われなければ、まぁ死にはしないだろう。そう思ったのは俺だけではないらしく、他のみんなも奴を守りにはいかず、むしろ囮にしようと空中で位置取りをした。
恐ろしい勢いで“精神”がヤルーの目前まで迫る。
だがこちらの予想に反して、攻撃は行われなかった。“精神”はそこで直角に折れるように急上昇したかと思うとそのまま垂直に空を駆けあがり、『ロムスの百年雲』の中へと消えていったのだ。
突然のことに俺達は呆気に取られ、しばし次の行動を取れなかった。
「降りて……来ませんねぇ?」
頭上の分厚い白い雲を見上げたまま、ブータが困惑顔で俺の元へやってくる。それに釣られて他のみんなもぞろぞろと集まってきた。
「逃げたんじゃないかな! 勝てそうにないから!」
そんな楽観的予想をしたのは、先ほどのスキルのせいで全身傷だらけ、かつ血まみれのヂャギーである。それに答えたのは残りの武器の在庫を確認しているラヴィ。
「いやー、それはないんじゃない? 一時的に初期状態とかいうのに戻ってるから、とにかく人間を執拗に狙うはずだってイスカちゃん言ってたし。……言ってたよね?」
二人揃ってイスカの方を向く。イスカというか彼女が中に入っている“肉体”は百年雲の方を見上げて腕組みをした。
『いったけどー。そのはずだけどー。おっかしいなー』
竜型天聖機械が腕組みをするというのも、なかなか見れない光景だ。こんな姿になっても、その仕草から中身の少女のことが目に浮かぶ。
『んー。……あ、わかった。すぴるはあれだー。にげたんじゃなくてー。イスカたちのことはとりあえずほうちして、ちかくのにんげんがあつまってるばしょにうんどうえねるぎーばくげきをしかけようと、こうどをとったんだなー』
うんうん、とイスカは一人で納得しているが俺達はその説明ではまったく分からない。ただ一人、ナガレだけはピンときたらしく、にわかに顔をしかめた。
「運動エネルギー爆撃……って、いったい何を落とすってんだ?」
『スピルじしんだぞー』
「は? あのデカい図体全部ってことか? んなことしたらスピルもタダじゃすまねーだろ」
何を話しているかはよく分からないが、ナガレはだいぶ困惑していた。
一方イスカは当然のような調子で頷いた。
『からだはバラバラになるけどコアはこわれないから、そのうちさいせいするんだ。あれやるとめちゃくちゃいたいから、くるっててもやらないとおもったんだけどなー』
途端にナガレの顔が青ざめた。
「どういうことです? 私たちにも分かるようにきちんと話してください」
と、リクサが彼女の方を向いて説明を求めた。イスカに聞くよりか分かりやすい返答が返ってくるだろうと思ったからだろうが。
「よ、要するにだな。大質量を高々度から投下して、地上にあるもんを破壊するってこった。魔術に《隕石招来》ってのがあるだろ? あれみたいなもんだ。あの巨体、あの質量でやるとなると威力はそんなもんじゃ済まないかもしれねーけど」
「……地上にあるものって……まさか」
リクサは絶句して足元の方、遥か彼方の地上を見下ろした。
俺も同じく、そちらを見やる。ミニチュアのようなサイズになったロムスの街並みが、そこには見える。
近くの人間が集まってる場所と言えば、あそこしかない。
それまで黙って話を聞いていたシエナが露骨に狼狽えだした。
「で、で、でも人が集まってると言っても地下深くですよ? 加速つけて体当たりしたところでどうにもならないんじゃ……?」
「それがそうとも言い切れねーんだよ」
ナガレが苦々しい顔で首を振る。
「あれだけのデカブツをここ以上の高さから落とすってんだからな。超強力な地中貫通爆弾みたいなもんだ。避難場所まで届く可能性は十分にある」
確証はねえけど、と彼女は付け加えた。
『ずうーっとまえ、あーさーたちにあうずっとまえにイスカもいちどつかったころあるけどなー。たぶんあれくらいのふかさならけしとばせるぞー。あのへんいったいなんもなくなるぞー』
イスカの淡々とした報告。
その場の全員が黙り込んだ。彼女の言葉に深い真実味を感じたからだ。
滅亡級危険種と対峙するのはもう何度目か。慢心していたつもりはないが、今回は少なくとも他の者を巻き込まずに戦えるだろうといくらか楽な気持ちでいたのは間違いない。それがこんなことになろうとは。
今から避難場所のみんなに連絡して逃げてもらっても、安全圏まではまず間に合わない。ならば、そう、“精神”の落下を止めるしか選択肢はない。
そう自分の中で結論づけたとき、イスカがその竜のような顔を俺に近づけてきた。
『おとーさん。おねがい、いっしょにスピルをとめにいこ? かそくがじゅうぶんにつくまえなら、きっととめられるとおもうから』
珍しく、というより初めて聞く、神妙な口ぶりだった。
彼女は彼女なりに、自分の付属パーツのことを心配しているようでもあったし、そのしでかそうとしていることに責任を感じているようでもあった。そしてロムスにいる人々を護りたいという強い意志も、確かに伝わってきた。
共に見た夢の中で、彼女は終末戦争を戦い抜いていた。
あれは戦争で傷つく、力なき者のためだった。
彼女は人の良心の化身であり、人類の守護者である。
その彼女の一部に、大量殺人などさせるわけにはいかないだろう。
俺はもう一度、頭上に広がる分厚い雲を見上げると、イスカの頬に手で触れ、力強く頷いた。
☆
どこまでも、どこまでも続く白一面の世界を、イスカの背に乗って登っていく。
ここは今から百年ほど前に突如現れた、鉱山都市ロムスの上空を覆う白い雲の中。
いや、雲とは言っても、微細な氷や水の粒が集まってできた普通の雲とは違う。これはそんな自然物ではない。
俺たちはもう、これの正体を知っている。
「この百年間で、この中に入った人って、本当にいないんですかねぇ」
俺の隣でブータがぶるぶる震えながら、白い息と共にそんなことを呟いた。
どうなのだろう。記録には残っていないが、そんな物好きがいてもおかしくはない。
「そろそろ普通の雲ができる限界高度ですよぉ。寒さも空気の薄さも限界ですよぉ」
泣き言をいう彼を責める気にはなれなかった。俺も同じ気持ちだったからだ。
「こんだけがっつり寒気対策してきてこれかよ、くそったれ」
毒づくナガレ。その顔面は蒼白で、歯の根が合わないのかガチガチと音を立てている。彼女は自分を乗せてくれているイスカの背を叩いた。
「おい、スピルはどんくらいの高さまで上昇してるか分かるか?」
『んー。もっとずっとうえだー。たぶん、ねつけんくらいまではいくんじゃないかなー』
「げぇ。それはさすがに人間がついて行くのは無理だろ……」
げんなりした顔のナガレ。たぶん俺も似たような顔をしている。
酸素が薄いせいか、呼吸も自然と早くなる。頭が割れるように痛いし、吐き気までしてきている。いわゆる高山病というやつなのだろうか。
人が活動するにはあまりにも過酷すぎる環境。
誰も言い出さないが、許されるならば今すぐ地上に戻りたいはずだ。
俺自身、何度も意識を失いそうになる。
そこでようやく決断できた。
「やっぱりみんなはさっきの高度まで戻ってくれ。あとは俺とイスカでなんとかするから」
イスカ以外の七人の顔がいっせいにこちらに向く。
ほっとしたような顔をする者。拒否の意志を示す者。どちらとも言えない者。反応はバラバラだった。
「なんとかって、手はあんのかよ、ミレちゃんよぉ」
ヤルーは怪訝そうでもあり、どこか期待しているようでもあった。
俺は自分の手元の聖剣に目をやる。
「十中八九、いや、もう少しくらいは成功率あるかな。でも確実ではないから、みんなはさっきのところで俺達が失敗したときのために備えてほしい」
「はっはぁ。なるほどねぇ」
ヤルーはそれで納得したらしい。片方の口端を吊り上げて見せただけで続きはなかった。
「そもそもミレくんはこれ以上の高さまでいって平気なわけ? 今にも死にそうな顔してるけどさ」
そう心配してくれたのはラヴィ。言ってる本人も死にそうな顔ではあるが、いつもの気だるげな様子を少しばかし深刻にしただけとも言えなくもない。
俺は聖剣の鞘を手に取って見せる。
「今はだいぶ辛いけど、俺にはこれがあるからね」
「あ、なるほどね。……ちっともうらやましくはないけどさ。んじゃあ、ここはミレくんに任せよっかな」
そう呆気なく撤退判断を下す者がいる一方で、引く気がまったくない者もいた。
その急先鋒はもちろんリクサである。
「私は最後までついていきます。勇者ですので、この程度の環境なら問題ありません」
そう頑なに主張してきたが、さすがにいくらかしんどそうに見えた。気温も気圧も酸素濃度も、これからまだまだ下がるはず。いくら彼女と言えど、無理なものは無理だ。
「俺を信じてくれ、リクサ」
いつものやり口だが、彼女の肩に手を置いてじっとその目を見つめると、反応もいつもどおりだった。
リクサは頬を赤らめて視線をそらし、申し訳なさそうに俯いた。
「……分かりました。確かに、ミレウス様にお任せするしかない状況です。ですが、どうか無茶だけはなさらずに」
「そんな危ないことはしないよ。大丈夫」
安心させるように微笑んでみせたが、リクサの顔色は晴れなかった。地上で別れたときのアザレアさんと似たような表情のようにも思える。
「女神アールディアよ、どうかこの者たちをお護りください」
「頑張ってね! みーくん! いーちゃん!」
シエナは目を閉じて祈りを捧げ、ヂャギーは両手を上げて鼓舞してくれた。
そしてみんなは《飛行魔術》で減速しながら、先ほどの高度へ向けて落下していく。
そこから先は俺とイスカの二人旅である。
更に過酷になっていく環境。
呼吸はますます荒くなる。いくら空気を取り入れても満たされず、まるで肺が半分になったよう。
冷気は目を開けているのが辛いくらいで、手足の先の感覚はもはや完全に喪失していた。
イスカと彼女が纏う“肉体”はどうもこれくらいはへっちゃららしいが、天聖機械ならざる俺はとにかく耐えるしかない。
さすがにもう限界だ、と音を上げそうになったとき、ふいに体が楽になった。どうやらようやく聖剣の鞘がこの環境を危機と認めて、加護を発動させたらしい。
「つくづく便利なアイテムだな」
皮肉交じりに呟いて聖剣を撫でる。どうせ後から戻ってくるのだ。ラヴィが話していたとおり、決してうらやましがられるような効果などではない。
しかし、それからの旅路が格段に楽になったのも事実。
そして楽になればそう長く感じることもなかった。
俺達はついに『ロムスの百年雲』を抜けた。
その先にはもはや何もない。ほの暗いような、薄明るいような空間が、星の海まで延々と続いているだけだった。
かつて、第一文明期にはこの高度まで来る科学の船も建造されていたという。
第二文明期にも、ここまでくる術式船があったとか。
しかし今ではどちらも失われた技術だ。
第四文明期に、ここへ到達したのは恐らく俺が初めてだろう。
ポンポンとイスカの背を叩く。
「よし、この辺でいいよ、止まってくれ」
『え? ここまだ、たいりゅうけんとせいそうけんのあいだくらいだぞ? スピルはもっとずっとうえだぞ?』
まだまだ飛ぶつもりだったのだろう。イスカは不思議そうにしていたが、指示どおりに止まって、その場で停止飛行してくれた。
俺は頭上を見上げる。
無限に広がる暗黒と虚無の世界。月たちと星々が静かに浮かんでいるのは確認できたが、“精神”の姿は見つからない。
しかし必ずそこにいるはずだ。
「見晴らしがよけりゃそれでいいんだ。……加速つく前なら止められるってイスカは言ってたけどさ。むしろ加速させてからの方がやりやすいと思うんだ」
『そう?』
「“精神”はロムス目掛けて一直線で落ちてくるんだろ? それならむしろ、こちらの攻撃を当てやすくなるからな」
イスカの背で立ちあがり、俺は聖剣を構えた。
チャンスは一度きり。大切なのは命中精度と時機選択だ。
回避されればすべてが終わる。
「イスカ。ブレスは吐けるな?」
『はけるはける。はけるけどー。……でもいっぱつじゃ、たぶんスピルはたおせないぞ?』
首を巡らせ、不安そうに背中の俺を見てくるイスカ。
先ほどリクサにそうしたのと同じように、俺は安心させるように笑ってみせた。
「大丈夫だ。俺を信じろ。なんたって俺は聖剣に選ばれた男なんだから」