第八十三話 温泉に入ったのが間違いだった
山頂でイスカと指切りをした数日後の晩。
俺は露天温泉に肩までつかって、百年雲に覆われたロムスの街の空を見上げていた。
今回俺たちが寝泊まりしているのは旧市街にある廃旅館なのだが、この温泉はそこの施設である。
今日も今日とて初代円卓の騎士にゆかりのある地をイスカと共に巡ったわけだが、その疲労が溶けていくかのようだった。
「温泉に毎日入れるってのはいいよなー」
パシャパシャとお湯を顔にかけて俺は大きく息を吐いた。
ウィズランド島は海底火山が隆起してできたと言われており、あちこちに温泉地がある。そのためこれくらいの温泉ではたいした観光資源にもならないのだが、気持ちがいいことには変わりはない。
乳白色の濁り湯で、酸性度が低く滑らかで入りやすい。いいお湯である。
俺がいるのは当然男湯で、そばではヂャギー、ヤルー、ブータの男性陣三人がのんびりとお湯につかっている。
女湯との境は背の高い竹垣があるだけ。しっかり編まれたものなので向こうが見えるわけではないが、音や声なんかは丸聞こえだった。
「あーーー、気持ちいいな。疲れが吹っ飛ぶ。やっぱ温泉は最高だぜ」
あちらで俺と似たようなことを言っているのはナガレである。
長い黒髪を縛った彼女が意外と立派なその双丘を湯に浮かべてくつろいでいる姿が脳裏に浮かんだ。
「ナガレさんのいた世界にも温泉ってあったんですか?」
「ふつーにあんよ。オレが住んでたのもウィズランド島と同じで温泉の多い島国だったしな。あー、ハコネ行きたい」
アザレアさんとナガレの会話である。
竹垣の向こうからはガールズトークが延々と届く。
「ここは美肌効果もあるらしいですね」
「リ、リクサさんは元々つるつるのお肌じゃないですか」
「そーそー。勇者さまはお肌の心配しなくていいからいいよねー。イスカちゃんみたいにむき卵みたいな肌でさー」
リクサとシエナとラヴィの声である。
毎晩こうして温泉に入っているわけだが、いつも一緒にいる女性たちがすぐそこで全裸でいる――というのは見えないにしても、やはり慣れないシチュエーションだ。
別に意識して聞いているわけではない。勝手に聞こえてくるのだ。
そして聞こえてしまう以上、彼女らの今の姿をまったく想像しないというのも無理な相談であった。
「ずいぶんあちらが気になってるようだな、ミレちゃんよぉ」
「ハハ。誤解を生むようなことを言うのはよせよ、ヤルー。俺はただ温泉を満喫しているだけさ」
ヤルーは不敵な笑みを浮かべて竹垣の方を見やると、俺の耳元で囁いてくる。と言っても、明らかにあちらまで聞こえる声量だったが。
「ブーちゃんから《透視》の魔術借りれば見れるんじゃねえの?」
「……お前、教唆犯としてしょっ引かれんぞ。だいたい俺は覗きとかそういうのはもうこりごりなんだ」
そう、あれは二年くらい前のことだったが。
「中等学校時代に行った夏の林間学校でさ。女子の水浴び覗き未遂事件ってのがあってさ」
「なんだそりゃ。ミレちゃんなんかやらかしたのか」
「いや、俺は何も悪くない。悪いのは入浴時間を女子に伝え間違えた先生だ。おかげでえらい目にあった」
あくまでも未遂だし、先生がすぐに間違いを認めて誤解を解いてくれたので女子たちの怒りは収まったが、危うく以降の学園生活の人権を失うところであった。
「あれ、ミレウスくんじゃなかったらやばかったと思うよー」
竹垣の向こうから届くアザレアさんの声。
彼女も当初は怒っていたのだが、事情が分かってからは俺を擁護する側に回ってくれた。
あの件でもし学校に通えなくなっていたら、修学旅行にも参加していなかっただろうし、そうなると王都で聖剣を抜いて王になることもなかっただろう。
俺の未来を変えかけた大事件と言える。
「そんなやべえエロハプニングを起こしていたとは、やっぱミレちゃん持ってんなぁ」
ヤルーは感心したような様子で俺の肩を叩いてくるが、まったく嬉しくはない。
「はぁー、のぼせてきちゃった! そろそろ上がって卓球でもしようよ!」
ザバッと波を立ててヂャギーが温泉を出る。
「お、いいですねぇ!」
「行くかー」
と、ブータとヤルーはそれについていったが、俺はもう少し温まっていきたい気分だったので誘いを固辞してその場に残ることにした。
目を閉じて顔を鼻のあたりまでお湯につける。
硫黄の独特な香りが鼻腔を刺激した。
「危ないですよー!」
「降りてきてー!」
女湯から聞こえてきたのはエルとアールの声だ。
何事かと瞼を開けて見てみると、竹垣の上からイスカが顔を出してこちらに手を振っていた。どうやらよじ登ったようである。
「みれうすー。そっちいくぞー」
「ま、待て、イスカ!」
慌てて向こうに戻るように手で指示するが、イスカはもちろん聞いてくれない。
いくらか修繕してあるとはいえ古い竹垣である。
案の定と言うか、予想通りというか、すぐにバキバキと音を立てて根元が折れて、こちらに向けて倒れてきた。
遮るものがなくなった女湯の方から多種多様な悲鳴が上がる。
俺は反射的に頭の上に乗せていたタオルで目を隠していた。
「壁よ!」
呪文を唱えたのはアザレアさんだ。たぶん障壁を立てる魔術のものだろう。
悲鳴が止んでから、ゆっくり五つ数える。
それから恐る恐るタオルを目から外してみると、竹垣があった場所には同じくらいの高さの黒い不透過の壁ができていた。
「おー……アザレアさん成長してるなぁ」
「胸の話ですか?」
「バッチリ見ちゃったんですか?」
左右から問われて、俺は首を横に振った。
「いや、魔術の腕の話だよ、もちろん。胸とかそういうのは見えなかったって」
そこで気づく。
前にはバシャバシャと泳ぐイスカの姿。
そして俺を挟むようにしてお湯につかっているのはエルとアールだった。
「ってなんで二人までこっちに来てんだよ!」
「イスカちゃんがこっち来ちゃいましたから」
「私たちはイスカちゃんのお世話係ですからね」
「いやいや、まずいだろ! こっち男湯だぞ!」
俺は思わず両手で自分の視界をふさいだ。
「まぁまぁミレウス陛下。他に人が入ってくることもありませんし」
「濁り湯ですから見えませんし。お気になさらず、お気になさらず」
そうは言うがこの二人は自称に違わぬ美人であるし、普段はゆったりした修道服で隠れているから分かりにくいが実は素敵なスタイルの持ち主たちである。
こんなシチュエーションで平静を保っていられる青少年がいるはずがない。
「とんでもないエロパプニング体質だな、オイ」
黒い障壁の向こうからナガレの呆れたような声がした。
彼女が軽蔑混じりの溜息をついているのが目に浮かぶ。
観念して両目から手をどける。
すると、エルとアールはお猪口で米の醸造酒を呑んでいた。
あの一瞬の間に徳利と共にちゃっかりこちらへ持ち込んでいたらしい。
「いやー、ロムスって面白い街ですね」
「国の予算で観光できて大満足ですよ」
二人はこの街の名産である黒たまごを取り出すと、剥いてつまみとして食べ始める。
要するに地熱と火山ガスを利用して作ったゆで卵だが、殻に鉄分が付着して黒くなっているのだ。
……そうだ。卵と言えば。
「お、時を告げる卵ですね」
「きれいですねー」
俺が地面に置いといた籠からそれを取り出すと、エルとアールは興味深げに身を寄せてきた。
体が触れそうになる――というか少しばかり触れるが、俺は心を無にしてどうにか耐えた。
この島に訪れる危機を映し出すというその魔力付与の品が放つ光は、やや赤みがかった黄色に変化してきている。これまでの経験からしてタイムリミットまではあと十日と少しと言ったところだろう。
イスカが制御できなくなったという付属パーツの一つである“精神”がこの島のどこに出現するかはまだ分からない。だが、その場所への移動時間や対策を練る時間を考えてもそろそろ判明しないと不味いことになる。
幸い、イスカの記憶が戻りそうな兆しはある。
思い出せなくなっていた理由も分かったし、あと一歩だとは思うのだ。
「これ、“精神”とかいうのが出現する場所が映らない理由はなんなんでしょうね?」
「地中に現れるとか? 湖の底とか?」
エルとアールの会話はすでに円卓の騎士たちの間でも何度か交わされたものである。
“精神”は仮死状態で寝ていたイスカや“肉体”と同じく微粒子レベルの大きさになって散在しているはずだから、そういった場所に出現する可能性はある。
あるいは単純に出現予定地点が暗いから映らないだけかもしれないが。
いずれにしても、そう。この卵が場所を映してくれたらこんな苦労をしなくて済んだのだが、それを言っても仕方がない。
「イスカ。おいで」
名前を呼んで手招きすると、彼女は実に嬉しそうに犬かきでそばにやってきた。
前髪が湯気で額に貼りついており、そこから生えた小さな角が露出している。
「仮死状態ってのは怪我を治すためのものなんだよな。ってことは終末戦争――イスカが生まれた頃に起きた戦争で負った傷を癒していたのか?」
これは彼女を王都に連れ帰った日に円卓の間でヤルーが尋ねたのとほぼ同じ質問だ。あのときは『思い出せない』と答えたイスカだが、今回はすぐには返事せず、自身の記憶を探るように白く濁る湯面をじっと見つめた。
「んにゃ、あのせんそーのけがはもうなおせないからちがうとおもう。イスカがあそこで寝てたのは……そうだ! あーさーとかといっしょにたたかってたときのけがをなおすためだ!」
たった今思い出したかのように叫んで俺に抱き着いてくるイスカ。
やはり記憶は確実に戻り始めている。
「統一戦争での損傷を治すために寝てたわけか。で、ちょうどこの間それが完治して出てきた……と」
だんだん彼女が歩んできた道のりが分かってきた。
しかし何かが引っかかる。
「スリープモード。……睡眠か」
俺はそこではたと気づき、隣にそびえる廃旅館を見上げた。
前回訪れた時からそうだが、あそこの最上階の一室で俺は寝泊まりしている。なかなかいい寝心地の寝具が用意されているので毎晩ぐっすり眠れているのだが――おかげで今の今までおかしなことが起きていることに気が付かなかった。
いや、起きていないことに、だ。
俺はイスカの記憶を取り戻すために、初代円卓の騎士にゆかりのある地をずっと巡ってきた。しかし俺は最初から彼らを象徴するような品を持っているではないか。
そしてその品には二百年前の出来事を知るための力が宿っているのだ。
「どうかしました? ミレウス陛下?」
「難しいお顔してー」
イスカに黒たまごを食べさせながら聞いてくるエルとアール。
俺は二人にニンマリと笑って見せた。
☆
最貧鉱山の遥か地下。第一文明期に掘削されたという広大な地下空間。
温泉から上がった俺たちはそこへやってきていた。
今から二十日ほど前に竜型天聖機械――“肉体”とイスカと戦ったあの場所である。
あの時に俺が【超大物殺しの必殺剣】で作った巨大な爆発痕の中心。ちょうど今の姿のイスカが現れたあの場所に、ヂャギーが豪華なダブルベッドを設置した。
「よーいしょっと」
「……うん、ありがとな、ヂャギー」
地上の廃旅館から持ってきてもらったものであるが、このサイズのベッドを一人で軽々と運搬する姿はやはり圧巻であった。
「じゃーねるかー」
イスカはベッドに飛び乗ると、アザレアさんに着せてもらったパジャマの裾に手をかける。
「脱ぐな脱ぐな」
慌てて止めて、俺もベッドの上に乗る。
温泉でイスカたちと話していて気がついたのは、まだこの街では統一戦争期の夢を見ていないということだ。
あれは俺が持つ選定の聖剣エンドッドが、その地で統一王一行が何をしたのかを見せているものだと思うのだが、時には役に立つこともある。
イスカが仮死状態で寝ていたこの場所で彼女と共に眠りにつけば、彼女が“精神”と“肉体”を制御できなくなった理由や、“精神”がどこへ行ったのかも分かるのではないか。
そんな目論見を抱いたのである。
「ああ、そうだ。エルとアール、ちょっといいかな」
ちょいちょいと手招きして、寄ってきた彼女たちに小声で頼みごとを告げる。
いや、別に後ろめたいことではないので小声である必要はないけども。
「ははぁ。それでしたらすぐに取り寄せられると思いますよ」
「お任せください。ミレウス陛下」
二人はにっこりと笑って快諾してくれた。
「手間をかけて済まないね。本当は王都にいるうちにやっとけばよかったんだけど」
まぁあの頃は思いつかなかったのだから仕方がない。
俺は聖剣を鞘に入れたまま枕元に置いた。
「それではおやすみなさいませ、ミレウス様」
「お、おやすみなさい、主さま」
リクサにシエナ、そしてみんなが口々に挨拶をして去っていく。
最終的にその場には俺とイスカだけが残された。
「……こういう広々とした場所で寝るってのもなんか不安になるな」
一人きりでないだけマシではあるけども。
枕元に置いといたランプを消すと、辺りは完全な暗闇に閉ざされた。
イスカがぎゅっと抱き着いてくるが、この子は定期的に俺の寝床に忍び込んできてそうしてくるので、もはや慣れたものである。
「おやすみ、おとーさん」
「ああ、おやすみイスカ」
俺たちは揃って目を閉じた。
すぐにイスカの静かな寝息が聞こえてくる。
この子はここで二百年間、たった一人で眠っていたのだ。
いや二つの付属パーツのことを考えると、一人ではないのかもしれないけれど。
……いったいどんな気持ちで眠っていたのだろうか。
そんなことに思いを巡らせていると、やがて俺にも甘やかな睡魔が訪れた。