第七十五話 彼女のことを忘れていたのが間違いだった
深い、オークの森の中。
積もり始めた落ち葉の上に、点々と血痕が続いている。
俺はそれを懸命に辿っていた。
血の量はさほど多くはない。ともすれば見落としかねない程度。
まだ乾ききっていないため、血の主はそれほど遠くへは行っていないはずだった。
これは夢だ。
……この村に帰ってきた夜に見たのと同じ夢。
もうずっと昔。
俺がオークネルの村へやってきて『ブランズ・イン』に引き取られた次の季節――今からおよそ十年前の秋のことである。
初等学校に上がる前の小さな体で森を進んでいくと、やがて目的地にたどり着けた。
一際大きなオークの樹。
血痕は、その根本に空いた洞へと続いている。
呼吸を止める。
ゆっくりと。
驚かせないよう、足音を忍ばせて、その洞へと近づく。
そしてそこに、俺は見つけた。
右足から血を流した灰色の毛並みの子犬が、怯えた目をして横たわっている。
「大丈夫」
声に出す。
子犬は威嚇するように小さく吠えた。
俺の伸ばした手に噛みつくような素振りも見せた。
しかしこちらに敵意がないことを感じ取ったのか、そのうち大人しくなり、俺の腕の中に納まった。
義母さんにバレないようにこっそりと、俺はその子を家へと連れて帰った。
そうしたのは、まだ義母さんのことをよく知らなかったからだ。
話せば、捨ててきなさいと怒られると思い込んでいた。
今考えれば、放任主義のあの人が、そんなことを言うはずがないのだけど。
その夜、狭い自室に清潔な布を敷き、その上で子犬の足の治療をした。
幸い傷は浅く、数日もすれば治るのではないかと俺には思えた。
もし悪くなるようなら、十字宿場まで行って医者に見せよう。
そう考えていたのだが、子犬の傷は翌朝には完治しており、傷跡すら残っていなかった。
本来、あそこで普通の犬ではないと気付くべきだったのだろう。
だが、それを不思議に思うだけの知識が当時の俺には備わっていなかった。
食事は俺の飯の余りをあげた。
寝るときはいつも一緒だった。
隙を見て散歩にも連れ出した。
子犬は臆病な性格のようで、常に俺の後ろをぴったりとくっつくように歩いた。
玩具で遊んでやるとよく喜んだ。
その子は俺の、初めての友達になった。
そして秋も半ばに差し掛かった頃。
夕飯の後、義母さんは突然、俺が自室で飼っているペットについて言及した。
この人に隠し事はできないと悟った瞬間である。
見せてみなさいと言われ、俺は絶望的な思いで彼女と共に自室へと向かった。
扉はなぜか、ほんの少しだけ開いていた。
疑問を覚えながら、部屋へ入ると――そこにはもう子犬の姿はなかった。
☆
胸のあたりに鈍い痛みを覚えて、瞼を開けた。
どうやら地面の上に、仰向けに倒れているらしい。
ここ最近だけでも何度かあったシチュエーションである。
すぐに横からシエナが心配そうな表情で俺の顔を覗き込んできた。
「あ、主さま! お気づきになられましたか!」
「ああ……なんとかね」
胸の真ん中、心臓のあたりを押さえながら、上半身を起こす。
まず最初にしたのは、近場に畳んで置いといた俺の外套で、シエナを包んでやることだった。
それどころではなかったのか、彼女はまだ下着すら着用していなかったのだ。
頬を赤らめる彼女を見つめて、端的に告げる。
「あれは別に義母さんも怒ってたわけじゃない」
案の定、彼女は何のことか分からないようで目をぱちくりさせた。
「俺の部屋にシエナがいることを、義母さんが問い詰めてきた時の話だよ」
「ああ、あの時の……」
頷きかけて、シエナはハッと息を呑んだ。
俺は持ってきた冒険グッズの中から簡易焚火セットを取り出すと、近くに組み上げて着火をする。
水に熱を奪われ、だいぶ体が冷えていた。
「……あの、いつから気づいてらしたんですか? いえ、お義母様の話ではなく。主さまが、わたしのことに気づいたのは」
「はっきり気づいたのはついさっきだよ。でもなんかシエナの様子が変だとは思ってた。オークネルの村に入ったときから、落ち着かないような素振りを見せてたしね」
だから、休暇中に何度かこの少女について考えた。
もしかしてガウィス川の聖水が効いているのではとも考えたが、そもそも聖水化施設に異常があったのだからそれはありえなかった。
「そっちこそ、いつ気づいたんだ? もしかして、俺と王都で会ったときから気づいてたのか?」
「い、いえ! まさか!」
シエナは首を横にぶんぶんと振る。
「もしかしてって思ったのは、主さまの故郷がこのオークネルだって聞いたときです。……それで御帰郷の護衛役に立候補したんですけど、確信したのは主さまの宿屋を見た時で……」
そこで一度彼女は言い淀んだ。
悪戯を咎められるのを恐れる犬のように、獣耳が垂れている。
「でも王都で会ったときから、なんだか不思議な感覚はありました。どこかで会ったことがあるような気がして」
「だからいつも後ろにぴったりついてきたのか」
今思えば、あれは散歩に連れだしたときのあの子犬の動きそのものだ。
シエナは申し訳なさそうに、うな垂れる。
「ほ、本当はすぐにでも昔のことを話したかったんですけど、主さまはお気づきになられていなかったようなのでタイミングを逃してしまって」
「……気づくというか、そもそもあの出来事自体、覚えていなかったんだ」
外套の上からシエナの華奢な体を抱きしめる。
彼女がまた、息を呑んだ。
かつて一つのベッドで寝ていたときと同じように、彼女の温もりを感じる。
「ごめん。どうしてあんな大事なことを忘れていたんだろう。本当に大切な友達だったのに」
オークネルに来た前後の時期の記憶は、どういうわけか曖昧なものが多い。
彼女との思い出も同じように埋もれてしまったのだろうか。
シエナが獣耳つきの頭を俺の胸に、すりつけてくる。
これも十年前と同じ仕草だ。
「今回の休暇でこの村に帰ってきたその晩には思い出してたんだ。でもあの子犬がシエナだとは分からなかった」
「あ、主さまは【完全獣化】をご存知なかったんですよね? それなら、あの時のわたしと今のわたしを結び付けられなくても無理はありません。あれは獣人系魔族の最秘奥ですのであまり知られてませんし、使えるのも限られたごく一部だけですし」
半獣化――【先祖返り】なら決戦級天聖機械のアスカラと戦ってるときに使っているのを見たことがあったし、知っていた。
手足が長い毛で覆われ、牙が生えるアレだ。
でも完全に獣の形態になれるとは知らなかった。
「……聞きたいことはいっぱいあるんだ」
二人、一つの外套に包まって焚火にあたる。
それからシエナは、たくさんの昔話をしてくれた。
オークネルに程近い、この辺りの森で生まれたこと。
十年前、共に暮らしていた両親が流行り病で亡くなり、頼れる人もなく、獣形態で小動物を狩って森で一人で生きていたこと。
俺に拾われたのはその頃で、人間の仕掛けた狩猟用の罠で怪我したときだったこと。
人の姿に戻れば驚かれてしまうと、俺の前ではずっと獣形態でいたこと。
食堂から自分のことを言及する義母さんの声がしたため、俺に迷惑はかけられないと宿を出たこと。
その後すぐに、両親の友人の人狼と出会い、王都の北西にある人狼の森へ移住したこと。
そんな内容を、シエナは淡々と話した。
彼女が両親を失った流行り病というのは、義母さんの両親が亡くなったのと同じものだろう。
この近辺に住む人狼たちも、他の人間とまったく接触をしないわけではない。稀にだがオークネルに物々交換に来る者もいる。
そういった交流のどこかで、不運にも病をもらってしまったんだと思う。
話を聞き終え、俺はしみじみ呟く。
「ウィズランド島も広いようで狭い。縁さえあれば必ずまた会える、か」
レイドの件で彼女が言っていたことだ。
確かに、また会えた。
あの台詞は俺と彼女のことを匂わせていたのだろうか。
シエナは突然、これ以上ないくらいの角度で頭を下げてくる。
「あ、あの、申し訳ありません、主さま」
「何が」
「その、主さまが気を失っていた間に……こ、呼吸をしていないように見えたので、水泳教室の時に教えていただいたことを実践してみたんです。で、でで、でもやってみたら実際はちゃんと息をしてて」
「ああー」
溺水事故の応急処置の講習のことか。
『息をしてない場合は心停止もしてるだろうから即座に心臓マッサージだ。胸のこの辺を真上から、強く早く押す』
あのナガレの指導のとおり、心臓マッサージをしてくれたのか。
どうりで胸のあたりが痛いわけだ。
「別に気にしなくていいのに」
そう声を掛けてみたのだが、シエナは火照った顔を両手で隠して、獣耳をぴょこぴょこと動かし、黙ってしまった。
そこでようやく俺も思い至る。
「もしかして、心臓マッサージの後の手順もやったの?」
「……は、はい」
なーるほど。それでこの恥ずかしがりようなわけか。
シエナは一緒に包まっていた外套を俺から剥ぎ取ると、それを頭から被って中に隠れてしまった。
もっとも下半身はほとんど隠れてないけど。
「きゅ、救命行為なので! ノーカウントにしてください!」
「いや、別に俺はカウントしていいと思うけど。覚えていないのが残念だ」
しばしの沈黙。
外套からシエナが恐る恐る顔を出す。
「じゃ、じゃあ、わたしもカウントしておきます……」
彼女の態度の変わりように、思わず苦笑する。
そういえばまだ礼も言っていなかった。
「ありがとう、シエナ。本当に助かったよ。君が来てくれなかったら、あの後どうなってたか」
「い、いえ、わたしも最初から【完全獣化】して一緒に泳いでいけばよかったと反省してます……」
「俺の前で使いたくなかったんだろ? なんとなく分かるよ」
獣形態を見られれば、十年前のことを俺が思い出すかもしれない。
たぶん彼女は、そういう形で気づいては欲しくなかったのだろう。
それにしてもカワワカメに襲われた時、聖剣を手放してしまったのは大失態だった。
騎士の召喚があればどうにでもなるだろうと慢心していたのがよくなかったと思う。
リクサの助言どおり、もう一人くらいついてきてもらうべきだったかもしれない。
そんなことを考えているうちに焚火の勢いが弱まっていって、そして消えた。
簡易用なので燃料はそんなに多くないのだ。
立ち上がり、体をまた入念にほぐす。
「もう一度、聖水化施設を見に行くよ。聖剣も回収しないといけないし、調節弁も開けなおさないといけないしな」
「わ、わたしも行きます」
「犬の姿で?」
「犬じゃなくて狼ですよ!」
憤慨したように尻尾を立てるシエナ。
そうは言われても、十年前は完全に犬だと思いこんでいたのだ。
「人間形態だと顔を水につけるのさえ嫌がるのに、狼の姿だと平気なんだね」
「【完全獣化】してる間は色々違うんですよ……生肉食べても平気ですし」
そういえば水泳教室のときに『その気になれば泳げる』と言っていたけど、あれは強がりではなかったわけか。
そんなわけで、今度は二人で地底湖を泳いで渡り、対岸に上陸した。
岩壁から突き出た土管。聖水化施設のフィルターはカワワカメが剥がれたため、美しい銀色に戻っていた。
狼形態のシエナが見守る中、拾い上げた聖剣でブータのスキル【能力解析】を借り、そのフィルターに対して使用する。
どうやら空間固定の魔術が掛けられているようで、物理的には絶対に取り外しができなくなっているらしい。
これなら魔術や魔法なしでは持ち逃げしようがないだろう。
俺は調節弁を開き、水の流れを元に戻すと、今度は【能力解析】を流れている水に対して使用した。
下流では純度が低くなるため反応しないが、ここでは違う。
無事、聖水であるという解析結果が返ってきた。
「ふぅ……これにて一件落着、かな」
ワンワン! と狼形態のシエナが吠える。
何言ってんだか分からない上、吠え方も犬そのものだ。
止めどなく流れる水を見ながら、考える。
カワワカメには手ごろな岩などに付着して獲物を待ち、近場に動くものが来ると巻き付いて殺害し、養分とする性質がある。
恐らく俺を襲ったあいつは土管の奥の方から地下水脈を流れてきたものだろう。
知性が限りなく低く聖水や聖銀の効果をほとんど受けないため、このフィルターが待機場所として選ばれたのだろうが――果たして、再発防止策はあるだろうか。
「うーん。いや、メンテの回数を増やすくらいしか対策はないな。十字宿場の冒険者ギルドの支部に依頼して、定期的に見に来てもらうようにするか」
財源にはオークネルに出しといた補助金を充てればいいだろう。
王様になった後に、なんとなく交付したものだったけど、意外なところで使い道が見つかった。
再び地底湖を泳いで渡り、入り口の方の陸地に戻ると、シエナと背中合わせで服を着る。
そこで今朝出発する前に服の中に仕込んでおいたお守りの存在を思い出した。
彼女が着替え終えたのを見計らい、掲げて見せる。
「覚えてるかな」
ややいびつな形をした小さな白い棒。
その正体は、十年前に彼女と一緒に遊ぶ際に使っていた鶏の大腿骨だ。
「それ! 取っておいてくれたんですね!」
シエナは目を輝かせ、尻尾をぶんぶんと振る。
その期待の眼差しに応えて遠くへ投げると、彼女は嬉しそうに走って取ってきた。
やっぱり犬じゃないか。
「あ、主さま。その……これからもまた、昔みたいに遊んでくれますか?」
「もちろん」
シエナは再び顔を両手で隠す。
しかし、その尻尾と耳から彼女の歓喜は手に取るように伝わった。
色々と後片付けをしてから俺たちはオークネルへの帰路につく。
シエナは来るときと同じように――そして十年前と同じように、俺のすぐ後ろをついてきた。
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【第十三席 シエナ】
忠誠度:★★★★★★
親密度:★★★★★★★★[up!]
恋愛度:★★★★★★★[up!]
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