第七十四話 聖水化施設を直しに行ったのが間違いだった
星降る丘で義母さんと話した、その翌朝。
俺は朝食を済ませた後、『ブランズ・イン』の自室で遠出の準備を進めていた。
このオークネルに滞在できるのは、今日を含めてあと二日。
できれば今日中に村で起きている異変を解決して、すっきりした気持ちで王都への帰路につきたいところである。
聖剣、携帯食料と水筒、ロープや松明など定番の冒険グッズ、血判ハンカチに銀の鍵。
あと必要なものはあっただろうか。
狭い部屋の中を見渡して目についたのは、隅に置かれた金属製の小箱――子供の頃にお気に入りのおもちゃやなんかを入れていた例の宝箱である。
その中から、ややいびつな形をした小さな白い棒を取り出し、懐にしまう。
特に意味はないが、お守り代わりにはなるだろう。
これで準備万端。
食堂へ向かうと、もう円卓の騎士の七人とアザレアさんは揃っていた。
義母さんは奥の方の席で食後のコーヒーを飲みながら、朝刊を読んでいる。
こちらが言葉を発する前に、ヤルーが俺の背中についているひらひらした赤い布を見て聞いてきた。
「このクソ暑いのに、なぜ外套」
「レイドを見習ったんだよ」
実はあの外套姿を見て、ちょっとかっこいいなと思っていたのだ。
今つけているこれは元々、中等学校時代に冬の登下校で使おうと思って買ったものだが、同級生に見られると思いのほか恥ずかしく、一回着ていったあとは押し入れの奥にしまい込んでいた。
アザレアさんは見覚えがあるのか、『あー……』と指をさしてくる。
うん、やはり少し恥ずかしい。
「さて。それじゃあ作戦会議をしよう。みんな集まってくれ」
滅亡級危険種討伐の会議と比べると、だいぶ軽いノリで宣言する。
義母さんが書棚の奥から引っ張り出してきてくれたオークネル周辺の地図をテーブルに広げ、みんなでそれを囲む。
ド田舎のものにはありがちだが、あまり正確には描かれていない。
しかし、作戦を立てるのには十分だろう。
「今回はいくつかの班に分かれて行動する。まずはこのオークネルからガウィス川をさかのぼり、河原で何か異変が起きていないか探す班。これはリクサとブータとラヴィに頼む。次にオークネルの周囲を巡回して危険種を探して討伐する班。これはヤルーとヂャギーだ。で、次がこのオークネルに残って防衛する班で、これはナガレとアザレアさんにお願いしたい」
ま、三番目のはあくまで保険である。
聖水の効果がなかろうと、たぶん村の中まで危険種が入ってくることはない。
「最後は本命の聖水化施設の様子を確認しにいく班だ。これは俺とシエナの二人」
「え! わ、わたしですか!?」
「うん。山登りで大変だけど、どうか頼むよ」
恐縮した様子で頷くシエナ。
リクサが、あたふたと手を挙げる。
「あの、もう一人か二人はミレウス様の班に回すべきではないでしょうか。異変の正体が不明な以上、どれほどの危険が待っているか分かりません。それに聖水化施設までの迷宮には危険種が稀に出るというお話だったと思うのですが」
「大丈夫、大丈夫。万が一、俺たち二人で手に負えないような状態になったら、騎士の召喚をするから」
「ああ……なるほど」
その手があったかという顔で、聖剣に結えられた血判ハンカチを見るリクサ。
自分がこの村に召喚されたときのことを思い出しているのだろう。
「それじゃ、行ってきます」
いつものように、義母さんに声を掛ける。
「気を付けてね」
彼女もいつもと何も変わらぬ調子で俺たちに手を振って送り出してくれた。
☆
俺とシエナはガウィス川をさかのぼる班と共に村を出て、登山道に入るあたりで彼らと別れた。
そこから向かう先は昨日と同じ。
村の北のヤノン山脈――その中で六番目の標高を持つベイドン山の中腹である。
山道であっても、いつもと同じように俺の真後ろを歩くシエナ。
彼女は森育ちのためか、体力は豊富である。
昨日と同様、小休止を挟みながら、二刻ほどで目的地にたどり着けた。
切り立った崖に、少し距離を置いて穿たれた二つの洞窟の入り口。
今日入るのは、昨日はスルーした鋼鉄製の扉で封鎖された方である。
シエナはその扉に獣耳を近づけると、手の甲で叩いて反響音を確認した。
「お、思ったよりも厳重ですね」
「初代の円卓の騎士が作ったものだからね。中に貴重品の聖銀もあるし、水源に悪戯されても困るしっていうことで、コイツがないとまず入れないようにしてあるらしい」
と、懐から取り出して見せたのは、複雑な形状をした銀製の鍵。
二百年前からオークネルの村長の間で継承されてきたもので、今回は事情を話して借りてきたのだが、どうやらこれも魔力付与の品の類らしく、形状だけをマネて複製しても意味がないそうだ。
シエナが見守る中、慎重に鍵穴へ差し込んで回してみる。
すると扉は音もなく独りでに左右へ開いた。
緩やかなカーブを描きながら奥へと続く石の通路。
その天井のところに白い光を放つ魔術の光源が等間隔に現れて、内部を照らし出す。
どうやらすぐ隣にある契約の洞窟とは異なり、こちらは完全に人の手で掘られたものらしい。
念のためにと持って来た松明は無駄になりそうだ。
「よし、頼む」
「はい、主さま」
細かく指示するまでもなく、シエナはこちらの意思を汲み取ってくれた。
扉を入ってすぐのところで四つん這いになり、目を皿のようにして地面の岩肌を調べ始める。
盗賊系や狩人系のスキル、【足跡追跡】だ。
彼女は後者の関係で習得しているらしい。
俺は少し後ろで腕組みをしながら、それが終わるのを待った。
彼女がこれを行うのを見るのはもう何度目かだが、尻尾をふりふりさせる姿はやはり可愛らしい。
そんな俺の視線を察知してはいるのだろうが、シエナはきちんと仕事を全うした。
立ち上がり、結果を報告してくる。
「残っているのは半年くらい前に来たと思われる三人組の足跡が一往復分だけです。……たぶん」
前回の聖水化施設のメンテに雇われた冒険者たちのものだろう。
俺の記憶にある人数とも一致する。
入り口の扉がちゃんと閉まっていた時点で予想はできていたことだけど。
「侵入者の形跡はないか。奥に行ってみるしかなさそうだね」
シエナを背後に連れて、前へ歩き出す。
延々と続く通路は緩いカーブを描くと共に、わずかに下への傾斜がついている。
つまり俺たちは螺旋状に地下へ降りて行っているわけだ。
ここは一応、名目上は迷宮ではあるが分岐もなく、稀に植物系や小動物系の低レベル危険種が出るだけ。
しかし今回はその気配すらしなかった。
拍子抜けした思いで進んでいく。
「こうしてると、前に一緒に行ったカーナーヴォン遺跡を思い出すなぁ」
「……ここって、あそこみたいに罠はないんですか?」
「ないよ。メンテの邪魔になるだけだから、つけなかったんじゃないかな。盗難対策であれば扉や聖銀付近を厳重にするだけでいいだろうしね」
こんな何もない山の中腹を訪れるのは隣の契約の洞窟へ観光にくるマニアくらいなものだし、そもそもこの洞窟の奥に何があるか知っているのはオークネルの村の民だけだ。
泥棒を警戒する意味はほとんどない。
強いて言えば、メンテに雇った冒険者が聖銀を持ち逃げする危険性はあるが――これも聞いた話だが、ちゃんとその辺も初代円卓の騎士が対策をしてあるそうだ。
どれくらいの時間、歩いただろうか。
結局、何にも出くわさずに通路を抜け、この迷宮の最下層にたどり着いた。
そこは広々とした地下空間。
見上げるほどに高い天井には点々と魔術の光源が配置されているが、距離がある分、歩いてきた通路よりも薄暗く感じる。
地面が続いているのは二十歩先くらいまでで、そこから向こうは広大な地底湖が広がっていた。
「はー。ここの水が地下を流れて、ベイドン山のあちこちで湧き水になって、それが合流してガウィス川になるわけか」
子供の頃から慣れ親しんだ河川の故郷ともいうべき場所を見れたからだろうか。
寒気にも似た感動を覚え、体が震える。
というより地下深くだから、単純に気温が低いのかもしれない。
シエナも自身の体を掻き抱くようにして震えている。
「あ、あの、主さま。なんだかここ、嫌な予感がしませんか?」
「んー、そうかな」
言われてみると確かに妙な胸騒ぎのようなものはするが――初代円卓の騎士がここにかけた魔術のせいだろうか。
しかし今はそれを気にしていられる状況ではない。
手をかざし、目を細めて地底湖の奥の方を見やる。
あちらに聖水化施設があるはずだ。
「暗いし遠いしでよく見えないけど……水が流れてる音はするな」
どちらにせよしっかり確認せねばならないので、あちらまで行ってみるほかない。
服を脱ぎ、あらかじめ下に履いてきた海水パンツ一丁になる。
この辺の事情はまだ話していなかったため、シエナが慌てた様子で聞いてきた。
「ブ、ブータくんから飛行の魔術を借りて飛んでいけばいいのでは?」
「聖銀の盗難防止のために、ここでは魔術や魔法は封じられてるらしいよ。それ以外のスキルは使えるそうだけど」
試しにと聖剣の柄を握り、ナガレの姿を思い浮かべてみる。
すると南の方角、オークネルの村があるくらいの距離に彼女の気配を感じた。
信頼度を用いて行う【居場所探知】である。
どうやら聖剣の力も、ここでは封じられていないらしい。
さらに念のためと思い、ブータの力を借りて《発光》の魔術を使ってみるが、やはり発動しない。
頭上の光源に用いられているのも似たような魔術だと思うのだが、あれは製作者側のものだから例外なのだろうか。
水に入る前の準備運動を始める。
それを見てシエナが健気に申し出てきた。
「わ、わたしも一緒に行きます!」
「いや、無理しなくていいよ。この湖、けっこう深いらしいよ? 向こうでヤバそうになったら召喚するからここで待機していてくれ」
シエナはまだ納得できないのか、地底湖に恐る恐る近づいていって、その淵から水を覗き込んだ。
透明度は非常に高いものの、岸から離れるとすぐに相当な深さになるようで底が見えなくなる。
ほとんど泳げない彼女にここへ飛び込む勇気はないだろう。そもそも水着も持ってきてないだろうし。
ま、そんなことは百も承知で連れてきたのだ。
俺は聖剣を鞘に入れたまま背中にロープで括り付けると、地底湖へと入った。
国宝でもあるこの魔力付与の品は軽量化の魔術もかけられているため、こうしてもほとんど動きの支障にはならない。
魔術が封じられていると言っても、永続付与が解除されることはさすがにないようだ。
対岸までの距離は案外短く、泳いでみるとすぐに水が流れる音の発生源までたどり着くことができた。
見上げるほどに高い、ごつごつとした岩壁。
そこから直径が人の背丈ほどはある大きな土管が伸びており、その口から盛大に水が流れ出して地底湖へと注いでいる。
これが聖水化施設だろう。
このベイドン山の頂上付近に降った雨や雪が地下に浸透して水脈を形成し、それが一度、ここから出てきているのだ。
というより、そうなるように第二文明期の連中が地形をいじくったとかいう話だけど。
恐らくは土管はそのころのもので、そこにあとから初代円卓の騎士が聖銀のフィルターをかぶせて、この施設は完成したのだろう。
土管の脇には入り口にあったのと同じくらいの広さの陸地があるが、こちらはかなり急な傾斜がついている。
俺はそこに上陸すると、背中から聖剣を外して手に携え、登っていった。
「……これか」
土管のちょうど横あたりに、これまた大きな調節弁がある。
正規のメンテナンス手順に従い、力を込めてそれを回してみると、土管から流れ出す水量が徐々に減っていき、そしてついには完全に止まった。
露わになった土管の出口に、警戒しつつ近づく。
そこには話に聞いていたとおり、格子状の構造がついていた。
これが水を濾過して聖水にしているフィルター……のはずなのだが、想像していたよりずっと目が粗い。
指の太さくらいの棒が拳一つ分くらいの間隔で縦横に並んでいるだけである。
こんなもんで聖水化ができるのかと疑問が湧く。
いや、そもそもこれは本当に聖銀のフィルターなのだろうか。
どう見ても聖銀――始祖勇者の血で聖別した銀の色ではない。
緑とも茶とも赤ともとれる色。
あるいは混ぜるのを失敗した絵具のような酷い色をしていた。
……錆ている?
まさか。永遠の象徴とも言われる聖銀が錆るはずはない。
このフィルターは砂やら土が付着して掃除が必要になることはよくあるそうだが、どうもそれとも違うようだ。
首を傾げ、左手を伸ばす。
それが失敗だった。
フィルター全体に貼りついていた帯状のそれは、突然動きだし俺の手に蛇のように巻き付いた。
思わず、体が硬直する。
それはその僅かな隙に腕を登ってきて、肩、胸、背中と絡みついてきた。
俺の脳裏に想起されたのは、この村の近辺に出る危険種の種類をシエナ達に教えたときのこと。
『九頭竜茸とか、自生人形とか、腐乱猪とかは少し村を離れると割と出るよ。……あとはカワワカメが出るとか出ないとか』
地下水脈を移動する魔術植物の一種。
姿は海に生育するワカメによく似ており、その正体は第二文明期に作られた非常食が繁殖して野生化したものとか。
――こいつが、フィルターに巻き付いていたせいで聖水化が為されてなかったのか!
「シエナァ!!」
咄嗟に叫んでいた。
続いて彼女を召喚しようと呪文を唱え始める。
だがその直後、カワワカメは俺の右腕までたどり着き、手の指と指の間に入り込んできた。
ぬるぬるとした分泌液で聖剣が滑り、俺の手から離れる。
聖剣が手元になければ、召喚はできない。
偶然だ。こいつに知性はない。
けど、まずい。
この手の拘束は聖剣の鞘の絶対無敵の加護の穴である。
締め付けのダメージはきちんと未来へ先延ばししてくれるが、身動きが取れなくなるのは防げないのだ。
カワワカメによる拘束はついに足にまで及び、俺はバランスを崩して転倒した。
斜面を転がり落ち、地底湖へと落下する。
勢いで水の中へ深く沈み込むが、瞬時の判断でしっかりと口は閉じていた。
呼吸ができず苦しくなる。
だが、しばらくしてふっと楽になった。
酸欠という状態を、聖剣の鞘が未来へ飛ばしているのだろう。
人間の体は水が肺に入らなければ必ず浮く。
そう信じて待ったのだが、むしろ逆に水面から離れていくように感じる。
これもカワワカメのせいなのか。
いずれにしても、このままではジリ貧だ。
体に貼りついたカワワカメを剥がすべくもがいてみるが、すでにどうにもならなかった。
静かなように見えた地底湖の深層は水の流れが激しく、俺もたちまちにして聖水化施設のあった方向から泳いできた入り口の方へと流される。
この危険種について俺に教えてくれた村人は誰だっただろう。
遥か昔に習ったその生態を、必死になって思い出す。
そう、たしかこいつはいくつもの帯が群れるような形をしているが、群体ではなく、あくまで一つの個体だったはず。
帯をまとめている根本のあたりに核があり、それを破壊すれば全体が活動を停止する。
目を凝らし、折り重なるように伸びる幾筋もの帯の根元を探す。
――あった。
ちょうど俺の右腕のあたりに、僅かに膨らんでいる箇所がある。
あれが、核だ、
武器はない。
だが攻撃手段はある。
バーベキューをやったあの夜に、犬歯を見せてソーセージにかぶりついたシエナの姿を頭に思い浮かべた。
スキルを借りるわけではないけども。
あの子のように大口を開けて、カワワカメの核を喰いちぎる。
大量の水と一緒に、ぬめった塊が俺の口に入る。
拘束が、ふっと緩くなった。
しかし体を覆うカワワカメが自然に剥がれてくれるわけではない。
体が沈むのが止まるわけでもない。
焦りを覚え始める。
全身についたそれらを一つずつ剥がそうとするが、水圧とぬめりでなかなか上手くいかない。
その時、頭上で水面が動くの見えた。
何者かが、こちらへ潜ってきている。
シエナだろうか。
――いや、違う!
前足で水をかき、俺の元へと潜ってきたのは、美しい灰色の毛並みを持つ狼だった。
なぜ、ここに?
狼は困惑する俺の襟首を鋭利な牙の並んだ口で噛むと、足を動かし水面への浮上を開始した。
こちらも見かけ以上の力強さである。
要救助者は、こういうときは脱力した方がいい。
初等学校で習ったことを思い出し、全身の筋肉を弛緩させる。
自然、頭は下を向き、視線は水底の方に向けられる。
俺はそこに人型の何かが沈んでいるのを見た。
人形?
いや、死体か……?
違う。あれは像だ。
魔神の姿を模した巨大な像が、水底に立っている。
その下には像を囲むようにして描かれた魔法陣。
あれは隣の契約の洞窟にあったという魔神像ではないか。
オークネルの村の近くに今も存在するというあの伝説は本当だったのか。
狼の力で俺の体は魔神像からぐんぐんと遠のいていく。
水面に、浮上する。
俺はカワワカメの核と噛みついたときに口に入った水を吐き出し、荒い呼吸を繰り返した。
その間も狼は俺の襟首を噛んだまま犬かきで泳ぎ、元いた方の岸まで引き上げてくれた。
陸地の硬さと、空気の大切さを感じながら、ほっと息を吐く。
だがそれも束の間、早くも締め付けのダメージが返ってきて、全身に強い痛みを覚えた。
しかし身動きがとれないほどではない。
残ったカワワカメの残骸を体から一つ一つ剥ぎとっていく。
灰色の毛並みの狼は俺のすぐ目の前で、お座りをして行儀正しく待っていた。
俺は昔――王になる遥か以前に、この狼に会ったことがある。
確信を持って、語りかける。
「やっぱり、君だったんだな。シエナ」
彼女の返事を聞く前に、意識が急激に遠のいた。
今度は酸欠が戻ってきたのだろう。
なるほど、溺れるとこうなるわけか。
狼が全裸の少女の姿に戻っていくのをぼんやりとした視界の中に収めながら、俺は意識を失った。