第七十一話 彼の正体に気づかなかったのが間違いだった
オークネルの北にそびえるヤノン山脈。
その峰の一つ、ベイドン山の中腹にある、魔神崇拝者が魔神と契約を行っていたという洞窟からの帰り道。
行きにも寄った小さな沢で、俺とアザレアさんは小休止を取っていた。
太陽はすでに最も高い位置を越えていたが、日暮れまではまだ時間がある。
今日も今日とて俺がみんなの夕飯を作らねばならないわけだが、この調子なら十分間に合いそうだ。
アザレアさんも今夜はうちに泊まることにしたそうなので、彼女に何が食べたいか聞いてみるのもいいかもしれない。
そんなことを考えていたためか、俺はそれに気づくのが遅れてしまった。
先に察知したアザレアさんが、袖を引いて知らせてくる。
「……ミレウスくん」
誰かを刺激しないよう抑えられた彼女の声量。
その見つめる先は、沢の向こう。
そこには人型の奇妙な生物が一体、立っていた。
折れたオークの枝を無理やり繋げて人形にしたかのような形状で、上背は俺と同じくらい。
顔に当たる部分は目と鼻と口の位置が抉られており、まるで田畑を守る案山子のようである。
自生人形だ。腐乱猪同様、こいつも目にするのは初めてだが話にはよく聞いていた。
オークの樹は魔術の発動体となる杖の材料にされるほど、魔力との親和性が高い。
そのため自然界の魔力を吸着し、このような魔術生物が自然発生することがあるという。
確か、同じように魔力への親和性を持つ人間の肉を好んで食うという話だったが。
「不味いな……」
周囲を見渡して焦燥感と共にうめく。
現れた自生人形は一体ではなかった。
沢の向こうにもこちら側にも、両手で数えきれないほど出現している。
完全に囲まれていた。
こうなるまで気づけなかったのは、魔術生物特有の気配の薄さのせいか。
緊張からか、アザレアさんが息を飲む。
「大丈夫。俺から離れないで」
囁き、聖剣の柄を握る。
数は多いが、低レベルの危険種だ。
今の俺ならアザレアさんを守り切れる。
じりじりと包囲を狭めてくる自生人形たち。
沢の向こうに現れたやつらも、水を越えてこちらへやってくる。
殲滅すべきか、逃走路を切り開くべきか。
こいつらの足の速さはどれくらいだったかな、と記憶を辿る。
背後のオークの森から中年男の渋い声が届いたのはその時だった。
「伏せろ!」
二人揃って咄嗟にその指示に従った。
そうした理由は分からない。
ともかく、続く中年男の呪文は俺たちがそうすることを見越したタイミングで唱えられていた。
「撃て!」
詠唱短縮をかけた簡潔な呪文だ。
幾筋もの光の矢が屈んだ俺たちの上を飛んで行き、にじり寄ってきていた自生人形たちの顔面に寸分たがわず突き刺さる。
五、六体の異形の魔術生物が、耳をつんざくような不快な声を上げて地に倒れた。
「下がっていろ」
そんな頼もしい言葉と共に、渋い声の主が背後の森から現れて、空いたスペースに進み出る。
俺とアザレアさんは、その人物を見て完全に言葉を失っていた。
何故ならそれが、自生人形にも負けぬ異形の持ち主だったからである。
直立した巨大なザリガニ。
そうとしか形容できない存在が、俺とアザレアさんの前に堂々と立っていた。
全身は真っ赤な甲殻に覆われており、顔には左右に向いたつぶらな眼球と長いひげのような触覚。
幅広の剣と大盾を大きな鋏の手で器用に掴んでおり、背中には深緑の外套を着用している。
先ほどの見事な詠唱から手練れの魔術師かと思っていたが、どうやら近接職のようである。
魔術と近接戦闘を両方こなせる職となると勇者系か、あるいは赤騎士あたりか。
いや、正直そんな疑問はこの異形による衝撃と比べれば些細なことだけど。
仲間を倒された自生人形たちは、キーキーと甲高い声を上げながら波状攻撃を仕掛けてくる。
ザリガニ男はそれを時には大盾で殴り倒し、時には幅広の剣で両断して数を減らしていった。
無双である。まるで相手になっていない。
男の武具はどちらにも相当な量の魔力が込められているようだが、そうでなくとも結果は変わらなかっただろう。
あっという間に、敵は残り僅かになった。
形勢の不利を悟った自生人形たちは撤退を始める。
ザリガニ男はそれを追撃し、一体、また一体と屠っていく。
「魔弾よ、貫け!」
今度の呪文を唱えたのはアザレアさんだった。
標的に向けられた彼女の人差し指の先から黒い礫が放たれて、最後の自生人形の頭部を粉々に砕く。
威力から見て効果拡大したものだろう。
反動が大きかったのか、アザレアさんは尻もちをついた。
「……終わった?」
誰に、と言うわけでもないが、俺はぽつりと漏らした。
返事は返ってこない。
が、たぶん終わったのだろう。
俺はなーんにもしていないが、どうやら危機は乗り切れたようである。
☆
「ふぅ……」
大きく息を吐き、聖剣の柄から手を放す。
いつでも動けるように全身を緊張させていたため、強い疲労感を覚えていた。
何度も言うがなんもしてないけど。
尻もちをついたままのアザレアさんに手を貸して起き上がらせてやる。
「怪我はない?」
「あ、うん。大丈夫。ありがとう」
「……なんもしてない俺が聞くのもなんだけどね」
卑屈な気持ちになるが、まぁ結果、怪我人が出なかったのだからいいだろう。
これは、そうだろうなと思っていたことだが。
「アザレアさん、やっぱり攻撃魔術も覚えてたんだね」
「実戦で使ったのは初めてだけど、ちゃんと発動できてよかったよ。逃がしたら、この辺に住んでる誰かが襲われちゃうかもしれないし」
照れ笑いのようなものを浮かべる彼女。
と、その表情が突如として一変した。
両手を天に突き上げ、狂喜して叫ぶ。
「あ、ああー! レベルが上がった! 上がったー!」
「……ああ。職レベルのことか」
俺も前に経験したことがあるけど、あれはけっこうびっくりする。
頭の中で、自分にしか聞こえない華やかなファンファーレが鳴り響くのだ。
「え、アザレアさん、いつの間に職なんか就いてたの」
「魔術を習い始めてすぐにね。その方が効率いいからってお師匠様に言われて」
「へぇ……知らなかった」
職業継承体系は、始祖勇者が残した世界規模魔術である。
簡単に言ってしまえば人類の知識や経験を世界規模で蓄積し、後に同じ道を歩む人の技術習得期間を短縮させるというシステムだ。
就く職によって身に着けられる技能や効能、レベルアップまでに必要な経験値などは変わるのだけど。
アザレアさんは嬉々として報告してくる。
「今ので[魔術師]のレベル『12』になったよ」
「はぁ!? なんでもうそんなに上がってるの!?」
「南港湾都市の一件で、一気に上がったんだよ。直接戦闘したわけじゃないのにすごいよね」
「あー……」
アザレアさんは魔神将グウネズにやられて動けなくなったラヴィを助けるため、すぐ近くまできて魔術を使っていた。
それで経験値がけっこう分配されたのだろう。
それにしても一気にそこまで上がるとは、滅亡級危険種の経験値恐るべし、である。
……矢面に立って戦った俺のレベルは上がらなかったけどな。
ザリガニ男――いや、そう呼ぶほかないんだけど――俺たちを助けてくれたその男は少し離れたところで屈みこみ、倒れた自生人形を観察していた。
声からしてたぶん中年、三十代後半くらいだと思うのだけど、見かけからでは判断できない。
二人で恐る恐る近づいていくと、彼は立ち上がった。
俺より頭一つほどは背が高い。
アザレアさんと共に会釈をする。
「あ、あの。助かりました。ありがとう」
「いや、礼はいい。どうやら余計な手出しだったようだからな。我がいなくても、どうとでもなっただろう」
「俺、なんもしてないですけどね」
「そちらの少女をかばっているのを見てたぞ。戦況を見て、自分のやるべきことをやった結果だろう。卑下する必要はなにもない」
と、ザリガニ男は人格者のようなことを言ったかと思うと、人間とは異なる形状の眼球でアザレアさんの顔をじっと見つめた。
身を逸らしながら、愛想笑いを浮かべるアザレアさん。
「な、何か?」
ザリガニ男は何も答えず、次は俺の方に顔を向ける。
瞼がないので必然的に瞬きもしない。
その結果、圧が凄い。
「我の名はレイド。流浪の騎士だ。こっちはレティシア」
「……こっちって?」
レイドと名乗った男は俺の問いには答えず、アザレアさんに目を向ける。
「オークネルの村の者か?」
「えーーーーーーと……はい」
アザレアさんは圧に負けたように頷いてしまった。
正確には違うが、まぁウィズランド島全体から見れば、オークネルも十字宿場も似たようなものだろう。
それにしてもザリガニ型の亜人など俺は聞いたこともない。
勇気を出して問いかけてみる。
「あのぉ……こんなこと尋ねていいのか分からないんですけど……レイドさんって何者なんですか」
「流浪の騎士だ」
「それはさっき聞きました」
「人助けが趣味の流浪の騎士だ」
「そういうのではなく……えーと、もっと直接的に聞いていいのかな」
「好きな食べものはコーヒーゼリーだ」
やばい。こいつ、人の話聞かない病だ。
レイドは、先ほどまで観察していた自生人形の残骸を顎で指す。
「こいつは自然発生することもあるが、それなりの腕の魔術師なら人為的に作成することもできる。だが、こいつらには何者かに魔力で操られていた形跡はない。紛れもない天然ものということだな」
ああ、先ほどはそれを確認していたのか。
だが、それがどうしたというのだろう。
こちらの疑問を見てとったのか、そのままレイドは続けてくる。
「先ほど連携して攻撃してきたところからも分かるとおり、自生人形は魔術生物の中ではかなり高い知性を持っている。つまり聖水の効果を受けやすいということだ。それが誰かの指示を受けたわけでもないのに、これだけこの川の近くまでやってきて、更にその水を越えたとなると、これはもう聖水化施設かその近辺に何か問題があったと考えるしかない」
「あ……そういうことか」
当然だがガウィス川の源流――聖水化施設に近づくほど、聖水の効果は強くなる。
これだけ上流であれば知性のある危険種は近づくことさえ嫌がる。
普通ならば、だが。
「えっと、一応昨日の時点でオークネルの村の人たちには警告はしてあります。九頭竜茸に腐乱猪と、立て続けに危険種が川の近辺に現れたので。帰ったら、もっと強く言っておきます」
「賢明だな。だが原因をどうにかせねば、危険種の出没は止まるまい」
レイドは山の中腹あたりへと目を向ける。
聖水化施設がある方角だ。
「早いうちに調べに行ってみることだな、少年」
「は、はい。……えーと、あの」
なんで聖水化施設のことを知っているのだろうかとか色々聞きたいことはあったのだが。
レイドは深緑の外套をはためかせると、振り返ることもなく颯爽と西の方へ去ってしまった。
それを引き止める勇気は俺にはない。
彼の背中が見えなくなってから、アザレアさんはぽかんと口を開けたまま首を捻った。
「なんだったんだろう、今の人……ひと?」
「人というかザリガニ」
「ザリガニというかザリーフィッシュかな……」
「うーん、謎だ」
助けてもらったし、悪人ではないようだけど。
「アザレアさん、レイドって名前に聞き覚えある?」
「ううん。……でも、もう一人の方はあるかも」
「あー」
自己紹介のとき、女性の名を出してたな。
聞き覚えというか、この島の住人ならば、誰もが知っている名だ。
赤騎士レティシア。
初代円卓の騎士の一人である。
アザレアさんは先ほどの衝撃の出会いを思い出しているのか、視線を空に泳がせた。
「もしかしてだけど、剣の名前を言ってたんじゃないかな」
「……なるほど」
そういや、名前を出すとき剣の方をちらっと見てたかもしれない。
赤騎士らしき人物が、赤騎士レティシアの名を持つ剣を携えている。
これは偶然なのだろうか。
「うーん、もうちょい話が聞ければよかったな」
しかし相手は人の話聞かない病の人間だ。
あれ以上、どうすることができたというのだろうか。
「帰ろっか」
アザレアさんの提案に、俺は素直に頷く。
オークネルに滞在できるのは今日を除くとあと二日だ。
その間に、やるべきことができたかもしれない。
☆
結局、俺が彼の正体に気づいたのは、宿に戻って自室で騎士たちからの好感度を聖剣に表示したときだった。
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【第四席 レイド】[new!]
忠誠度:
親密度:
恋愛度:★[up!]
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