第六十九話 猪を退治したのが間違いだった
オークネルの村の南、ガウィス川が合流したその先で、天然のプールのような滝つぼが夕日の色に染まり始めた。
俺が講師を務めたオークネル水泳教室も、これにて閉講である。
受講生の一人であるリクサが水着姿のままサマーベッドに腰かけて、がっくりと肩を落とす。
「やっぱり今日もダメでした……」
「いや、ま、それなりによくはなってきたよ。それなりに」
予想できたことだが、やはり彼女は一人で泳げるようにはならなかった。
しかしあと一日か二日も指導できれば、結果は違ったことだろう。
休暇の日程的に今日がここで彼女たちに教えられる最後の日であるのが悔やまれるところだ。
もう一人の受講生であるシエナは、獣耳と尻尾が濡れているのが嫌らしく、少し離れたところで焚火にあたり体を乾かしている。
彼女も泳げるようになるまではあと一歩というところだった。
「二人さえやる気なら、王都に帰ってからまた教えてもいいけど、どうかな」
少し照れ気味に提案する。
リクサは驚いたように息を飲んだかと思うと、両手で俺の手を握って、その瞳をきらきらと輝かせた。
「あ、貴方様こそ、真の王です!」
「水泳教室くらいで大げさな……」
そう言われて悪い気はしないけどね。もちろん。
しばらくの間、心酔したような表情で俺を見ていたリクサだったが、やがてその顔を曇らせた。
申し訳なさそうに、上目遣いで聞いてくる。
「あの、ミレウス様。何度も水泳教室を開いていただいた身で聞くのもなんなのですか……きちんと休暇を楽しめていますか?」
「楽しめてるよ。楽しいに決まってる」
一日中、水着の美女たちに囲まれて、いったい何の不満があろうか。
むしろ理想の夏休みと言える。最高だ。王様になってよかった。
「そもそも休暇が取れたのはリクサのおかげなんだから気にすることないよ。……十字宿場に行って中等学校時代の先生や友達とも数カ月ぶりに話せたし、休暇中にやりたいことはだいたいもうやり終えた」
「なら、いいのですか」
心底ほっとしたようなリクサの表情。
「しかしミレウス様が訪ねていかれたとなると、皆さん驚かれたでしょう」
「事前に手紙を出しておいたからそうでもなかったけどね。どんなふうに接していいか分からない風ではあったなぁ」
「ああ、それはそうでしょうね」
リクサは口元に手をやって苦笑いを浮かべる。
王都で聖剣を抜いてしまったあの時以来、一人の例外を除いて、学校のみんなとは会えていなかった。
そんなわけで。
『おっす、国王です。あの時以来だね。修学旅行中にいきなりいなくなってごめんごめん』
と、いうような旨をみんなに話したのだが、どいつもこいつも緊張とも困惑ともとれる表情で応対してくれた。
国王相手にも、それまでと何も変わらない態度で接してくれるアザレアさんや義母さんみたいな人は稀有なのである。
「あー、リクサこそ、休暇楽しめてる? バートリ家のお嬢様がこんな田舎の村でこき使われてるのって、やっぱり問題じゃない?」
円卓の騎士のみんなは男女日替わりで村人たちの依頼を受けている。
リクサの場合、家事などはまったくできないため、主に初等学校で夏期講習の手伝いをしたり、農作業の手伝いなんかをしてるようだ。
彼女は眉間の力を抜き、目を細める。
「とても貴重な体験をさせてもらっていると思います。ミレウス様が暮らしていた村のことを知れて本当に嬉しいです」
いつもよりずっと柔らかい表情に、思わずどきっとした。
普段の仕事から離れているためか、あるいはここではあまり特別扱いされないためか。
彼女の素に近い部分が現れているような気もする。
「ミッレくーん? あたしは貴重な体験だなんてこれっぽっちも思ってないんだからねー」
そんな不満気な声と共に、誰かが後ろから両手を回して抱き着いてくる。
誰かというか、振り返るまでもなくラヴィだけど。
「あたしはさー。ミレくんのためにさー。めちゃくちゃ我慢して働いてるんだからねー?」
「はいはい。ありがとうありがとう」
今でこそラヴィはどうしようもないぐーたら女であるが、昔はいろいろ苦労していたらしく、どんな仕事を依頼しても小器用にこなすらしい。
そのため村民たちからは重宝されているという。
この村の人たちの生活環境が向上するのは出身者である俺としても喜ばしいことであり、恩着せがましい彼女の物言いに対しても素直に感謝を示すしかない。
「ご褒美ちょうだいよ! ギブミーご褒美!」
「しゃーない、王都の高級美容専門店、ビューティ・クロコダイル仕込みのマッサージでもしてやるか」
「お、いいねー!」
ノリノリでサマーベッドの一つに寝転がる水着姿のラヴィ。
その肩を適当に揉む。
ビューティ・クロコダイル仕込みとは言ったけれど、前に一度施術してもらったときのを、見様見真似でやってるだけだ。
しかしそれなりには気持ちいいのか、ラヴィの表情が見る見るうちに緩んでいく。
「極楽気分だよぉ。いいよいいよぉー」
人に喜ばれると自分も嬉しくなってしまう性分の俺である。
肩から背中、腰、太ももと、マッサージに没頭していく。
下心はない。本当だ。
彼女に気持ちよくなって欲しい。その一心で、これ以上ないくらい集中していた。
おかげで、すぐそこに来るまで、その気配を察知できなかった。
「……なにやってるの、ミレウス」
「か、義母さん!?」
瞬時にその場を飛びのいた――が、どう考えてもバッチリ目撃されただろう。
顔が急激に火照っていくのを感じる。
円卓の騎士のみんなに見られる分には平気だけど、家族に見られるのはさすがにきつい。
一方ラヴィは何事もなかったかのように『どうもー』なんて言って義母さんに媚びを売っていた。
俺はどぎまぎしながらそれを遮る。
「ど、どうしたの、義母さん。こんなところに来るなんて」
「そろそろ夕飯だからアナタを呼びにきたのよ」
「ああ……そうか。そうだね」
夕日はすでにほとんど山に隠れており、辺りは暗くなり始めている。
夕飯だから呼びに来たといっても、さっさと夕飯の支度をしなさいという意味である。
この村を留守にしている間に仕事当番が溜まりに溜まっているので、それを消化しなければならないのだ。
「で、アナタいま、何やってたの」
「いや、臣下へのちょっとした慰労というかスキンシップというか……か、義母さんがわざわざ呼びに来てくれるなんて珍しいね!」
「ついでよ、ついで。水車小屋まで小麦を挽きに行ってたから、寄っただけ」
義母さんは、小麦粉が入っていると思われる紙袋を掲げて見せる。
同じセリフをナガレが言ったら照れ隠しだと思うところだが、この人の場合、ホントについでなのだ。
しかし仕事当番はしばらくずっと俺なのだし、言ってくれれば小麦くらい俺が挽きに行ったのに。
何はともあれ話題を逸らすことができたようで、俺はほっと胸を撫でおろした。
いまだ婦人雑誌を眺めるナガレのもとへ、義母さんは、うきうきの様子で歩いていく。
「どう、ナガレさん。解けたかしら」
「うーん、たぶん……? いや、どうだろ」
自信なさげに首を捻るナガレの手元を義母さんが覗き込んだ、そのとき。
シエナが突如として耳と尻尾をぴんと立て、飛び掛かる寸前の猫のようなポーズを取った。
その目が見つめるのは、オークの森の奥の方。
「何か異臭がします!」
警告の声に反応して、円卓の騎士全員が臨戦態勢を取る。
人狼は嗅覚が特に優れていると聞く。
それを信頼してのことだろう。
「お下がりを」
いつもの凛々しい顔つきに戻ったリクサが剣を取り、俺と義母さんを護るように前に立つ。
直後、ドスドスという恐ろし気な重低音が聞こえてきた。
夜の闇に沈んだオークの森から何者かがこちらへやってくる。
鼻が曲がるような腐臭を、俺もすでに感じ取っていた。
焚火が投げかける明かりのもと。
現れたのは、乗り合い馬車ほどの巨大な猪。
その肉は醜く爛れており、燃えるような赤い両眼は明確な憤怒を宿して俺たちを睨みつけていた。
「た、腐乱猪だ!」
無意識のうちに叫んでいた。
この目で見るのは初めてだが間違いない。
オークネル近辺では最強クラスの危険種で――。
「いきます!」
「え?」
俺が思考してる間にリクサが動いていた。
こちらに突進してくるような素振りを見せた腐乱猪に先手を打って突撃し、その愛剣、ローレンティアで抜き打ちを放つ。
俺に見えたのは、銀の軌跡が闇を切り裂くところだけだった。
腐乱猪がその巨体を震わせたかと思うと、一呼吸置いてその頭部が地面に落ちた。
ズシン! と音を立てて胴体も地面に崩れ落ちる。
まさに一刀両断。一撃である。
得意の聖銀活性化による種族特攻付与をするまでもなかった。
義母さんは唖然としたまま、動きを止めた腐乱猪とそれを仕留めたリクサを見ている。
「た、倒したの……? あー、驚いたわ……」
「うん、びっくりだ。こんな川の近くでこいつが出るなんて初めてじゃないかな」
死族には聖水が効きにくいけど、こいつはそこそこ知性があるからそうでもないって言うし。
義母さんは呆れた顔で首を横に振って見せた。
「いや、それもだけど。強いのねぇ、リクサさん」
「そりゃ円卓の騎士だし。勇者だし」
なんだか慣れてしまったけど、確かに強い。
腐乱猪は熟練冒険者のパーティでも手を焼くくらいの大物だ。
九頭竜茸とはわけが違う。
もっともリクサは大したことでもないかのように、愛剣を川の水で清め、綺麗な布で拭いている。
水泳をやってたときのビビりようとはえらい違いだ。
腐乱猪の死骸――いや、死族なのだから元から死骸だったかもしれないが――とにかく動かなくなったそれを興味深げにラヴィが見ている。
「この辺、こんなん出るんだねー。怖いねー」
「人間の仕掛けた罠に掛かったまま死んだ猪が、邪神の救済を受けて蘇った姿らしいよ。その怨念が強いほど肉体が肥大化して狂暴になるとか。このサイズがどれくらいのものなのかは分からないけどさ」
ここに残しておくと、後々問題になりそうなので、シエナに《浄化》の魔法をかけてもらう。
そこでふと気づいたが。
「人間への復讐のために蘇った野性動物ってことらしいけど……復讐を司る女神様の信徒として、思うところはないの?」
「力及ばず復讐が叶わなかったのならば、それは自己責任ですよ、主さま」
「シビアだなー」
彼女が信仰するアールディアは、森や狩猟を司る女神でもある。
その教義は弱肉強食をメインとしており、不幸になりたくなければとにかく強くなれ、というものらしい。
ラヴィは浄化されていく腐乱猪に鼻を近づけたかと思うと、顔をしかめて退避してくる。
「この間、ヂャギーくんが狩ったっていう九頭竜茸は美味しかったけど、さすがにこれは食えないよね」
「食ったら腹を壊すだけじゃ済まないだろ。絶対」
「いやー、納豆とか発酵食品みたいに案外美味しかったりしないかなーって。しないか」
しないだろ。
世の中には何故それを食べてみようと思ったのか、先人を問い詰めたくなるような料理もたくさんあるが、さすがにこれは無理だろう。
腐った猪の肉がきれいさっぱりなくなったところで、みんなで村への帰路につく。
だが俺はすぐに立ち止まり、滝つぼの方を振り返った。
九頭竜茸に腐乱猪。
どちらも聖水の効果が出にくいタイプの危険種ではある。
だが、こんな川の近くに立て続けに現れるのは、やはりおかしい。
「……ホントに偶然なのか?」
一人ごちる。
この平和なオークネルの村に、何かの異変が起き始めているような。
そんな胸騒ぎを俺は覚えていた。
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【第二席 リクサ】
忠誠度:★★★★★★★[up!]
親密度:★★★★[up!]
恋愛度:★★★★★★
【第七席 ナガレ】
忠誠度:
親密度:★★★★★
恋愛度:★★★★★★★★[up!]
【第十二席 ラヴィ】
忠誠度:★★★
親密度:★★★★★[up!]
恋愛度:★★★★★★★
【第十三席 シエナ】
忠誠度:★★★★★★[up!]
親密度:★★★★
恋愛度:★★★★★★
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