第六十八話 水泳教室を開いたのが間違いだった
男だらけの円卓騎士団釣り大会――兼オークネル釣り名人決定戦の数日後の昼。
俺は円卓の騎士の女性陣四人と共に、オークネルの村の南方へ遊びにきていた。
そこは東西のガウィス川が合流した少し先であり、小さな滝と、適度な深さと広さを持つ滝つぼがある。
要するに天然のプールのようになっているわけだが、俺はそこで海水パンツを履いて肩まで水に浸かっていた。
目の前にいるのは白銀の長い髪を結ったリクサである。
以前、南港湾都市の浜辺で遊んだときに見たホルターネックタイプの水色のビキニを着ているが、今日はシースルーの腰布はつけていない。
彼女のいるところはまだ足がつくのだが、すでに緊張の面持ちであった。
滅亡級危険種と戦うときでさえ臆したりしないのに。
「ミ、ミミ、ミレウス様、絶対に手を離さないでくださいね!」
「はいはい」
すでに何度も繰り返されたやり取りである。
リクサは俺の両手をがっしりと掴むと水底を蹴って、水面と並行になるように体を投げ出した。
いわゆる蹴伸びの状態である。
俺はそれに合わせて少し後退する。
「顔つけて、顔」
「は、ふぁい!」
返事の際に水を飲んでしまったのか、途端にリクサはパニック状態に陥った。
死に物狂いで俺にしがみついてくる。
もうこれも慣れたもので、俺は冷静に彼女を足がつくところまで戻してやった。
「さっき、顔を水につける練習したときはできてたのに」
「あ、足がつかないところだと思うと緊張してしまって」
リクサは死にそうな顔をしながら、ゼェハァと荒い呼吸を繰り返している。
オークネル水泳教室は彼女たちをこの村に召喚してから隔日で開いているのだが、ここから先に進む気配がまったくない。
休暇の日程から言って、俺が指導できるのは今日が最後である。
たぶん、というか間違いなく、この休暇のうちにリクサが一人で泳げるようになることはないだろう。
「さっきやった、リラックスして体を浮かす練習、思い出して」
「は、はい」
彼女の息が整ったところでもう一度。
しかし結果は変わらない。
溺れかけて俺にしがみついてくる彼女を、元の場所へと戻す。
騎士団一のグラマラスな女性に水着姿で抱き着かれるというのは役得と言えば役得だった。
「……勇者なのになんで泳げないんだろうね?」
「ゆ、勇者の血が流れていることと、泳げる泳げないは関係ありません。【水泳】は一般スキルですし」
そら、そうだけど。
人間離れした身体能力を持っているんだから、泳ぐのだって簡単な気がするのだが。
とりあえず限界が見えてきたリクサは河原に上げて休ませて、指導対象をシエナに変更する。
肩と背中を大きく出した白のワンピースタイプの水着を着用した彼女は、ぴんと獣耳を立てて気合十分といった様子で俺のところへやってきた。
やはり同じように蹴伸びの練習をするのだが、シエナも顔を水につけるのに抵抗があるらしく、まだこの段階から先に進めない。
パニックになって暴れたりしない分、リクサと比べてマシではあるのだが、抱き着いてこないので、つまらないといえばつまらない。
「あ、あの、わたしは泳げないわけではないんですよ。その気になれば泳げるんですよ」
そんなふうに、珍しく強がりのようなことを彼女は口にする。
確かに犬かきのような泳法であれば少しは泳げるようではあったが、それが却って正しい泳法を身に着ける妨げになっているような節もある。
水泳初心者にありがちな状態だ。
「よーし、もう一回だ」
と、呼吸を整えたシエナを促した、その時。
滝の上の方から陽気な声がした。
「いやっほおおおおおおい!!」
ラヴィの声である。
滝の脇には傾斜が緩やかな支流があり、そちらがゴールドカブトアユの遡上コースになっているのだが、川底の岩がつるつるとしているため人間にとっては天然のウォータースライダーになっているのだ。
そこを滑り降りてきたラヴィは、バシャーン! と盛大に音を立てて、滝つぼの中へ突っ込んだ。
水しぶきが俺たちのところまで飛んでくる。
楽しそうでなにより。
「俺も小さい頃は、あれでよく遊んだなー」
しみじみ呟く。
ラヴィはそのまま水中を潜水してくると、俺のすぐそばで勢いよく浮上して顔を出した。
胸元を両手で押さえてポーズを決め、片目を閉じてこちらにアピールしてくる。
「ポロリもあるよ!」
「ないだろ……ポロリしてないだろ。するわけないだろ」
ラヴィが着てるのは黒のチューブトップタイプの水着で、左右のブラの間に輝く金のリングがついている。
がっしりしてるというほどではないにせよ、この程度で外れるものではない。
「でも、しっかり確認はするんだねー」
「……怪我してないか心配で見たんだよ」
嘘だけど。
南港湾都市育ちだからかどうかは知らないが、彼女は泳ぎが達者だ。
そのためここでは俺の生徒ではなく、脇の方で勝手気ままに水遊びを楽しんでいる。
しかしそれもさすがに飽きたのだろうか。
指導を続ける俺に背後から抱き着いてきた。
「ミレくんさー。リクサやシエナちゃんばっか見てないで、あたしとも遊んでよー」
「だって、見てないとこの二人、溺れるだろ……」
均整の取れた体の一番出っ張ってる部分を背中に感じる。
わざとそうしているのだろうし、その点に反応したら負けだ。
「ナガレに遊んでもらったら? 暇そうだし」
厄介ごとを押し付けるような気持ちで、この滝つぼ周辺にいる最後の一人に目を向ける。
その人――ナガレもやはり泳げるようで俺の生徒ではないのだが、水泳教室の日はいつも何も言わずについてきて、適当に近くで過ごしていた。
今は河原にサマーベッドを置いて、その上で婦人雑誌を睨みながら、ああでもない、こうでもないと唸っている。
水場なので一応水着を着用しており、その上にパーカータイプのラッシュガードもつけているが、水には一度も入っていなかった。
「ナガレー、解けたかー?」
「解けねーよ!」
雑誌に目を落としたまま、ぶっきらぼうに答えてくる。
彼女が見ているのは雑誌の最後の方にある、懸賞用の詰めショウオギのコーナーだ。
ショウオギというのはナガレと同じ世界から来た訪問者が持ち込んだ盤上遊戯で、あちらの世界ではショウギというらしい。
ウィズランド島ではあまりメジャーな遊びではないが、俺は中等学校時代にショウオギ部の部長をやっていたので、嗜んではいた。
もっとも大して強くはないのだけど、ナガレはその遥か下を行くド素人レベルで、以前勝負を挑まれた際は思わずけちょんけちょんにしてしまった。
さすがにあれで懲りてくれたと思ってたのだけど。
『矢倉囲い覚えたんだぜ。ギッタンギッタンにしてやるわ』
と、これまた素人丸出しの発言で勝負を持ちかけられたのが、彼女をこの村に召喚した日のこと。
『義母さんを倒せたら相手してやるよ。義母さんに勝てないようじゃ、どうせ俺には勝てないし』
と、華麗に躱したわけだが、義母さんは俺が入っていたショウオギ部の創設者であり、名ばかり部長の俺とは違い、ガチのショウオギ好きである。
俺の足元にも及ばないナガレが勝てるはずがない。
そう思っていたら、義母さんからも勝負をするために条件をつけられたらしく、それがあの雑誌の詰めショウオギを解くこと、だったのである。
詰めショウオギというのは、シュウオギのルールを用いた一人用のクイズのようなものだ。
『これ、あたしが投稿したやつなのよ。景品の扇子ももらったの』
そんな風に、以前、義母さんが珍しくはしゃいでいたのを見た覚えがある。
よっぽど誰かに解いてもらいたかったのだろう。
「ムズすぎる……本当にこれ答えあんのか?」
懸賞コーナーに採用されるだけあって、じっくり考えれば誰でも解けるくらいの難易度なのだが、ナガレには厳しいらしい。
「ヒントやろうか?」
「いらねーよ!」
「……飛車が鍵だ」
「ん? あ、そうか! そういうことか!」
ナガレはヒントをもらったことに気づかずにガッツポーズを繰り返している。
しかし本当に解けたのだろうか。非常に疑わしい。
ここらでシエナにも疲労の色が見えてきたので、河原へ上げて休ませる。
彼女もリクサも常人離れした体力の持ち主なのだが、慣れないことをするのはやはり相当な負担が掛かるらしい。
一方、元気が有り余っているらしいラヴィは、背中にしがみついたまま甘えてくる。
「ミッレくーん。あたしにも水泳教えてー」
「いや、めちゃくちゃ泳げてるでしょ。むしろ俺より上手いでしょ」
「じゃあ人工呼吸でいいから教えてー」
「じゃあってなんだよ、じゃあって。……いや、待てよ」
溺れた人への応急処置をみんなに教えとくのは悪くはない案だな。
俺がいないところで誰かが溺れるかもしれないし。
自然と触れ合う機会の多いド田舎だけあって、我が村では初等学校の一年目からその手のことを教えることになっている。
なので俺ももちろん習得していたし、アルバイトで学校の手伝いをする際に小さな子供たちに教えたこともあった。
というわけで俺も水から上がり、臨時の講習会を開くことにした。
受講生はラヴィとリクサとシエナ。
一応、もう一人にも声を掛ける。
「ナガレも覚えておくかー?」
「は? いいよ、オレは。中学で習ったし」
異世界の教育もなかなかしっかりしてるようである。
そう素直に感心していると、ラヴィが俺の肩をちょいちょいと叩いてきた。
悪だくみをしている顔である。
「じゃあナガレちゃんにやってみせてもらおうよ!」
「ハァ? なんでオレが……」
当然、面倒くさそうな顔をするナガレ。
俺とラヴィは二人で畳みかける。
「お、ホントはできないのか?」
「できないんだー?」
「……上等だよ! やってやんよ!」
ナガレは乱雑に雑誌を置くとサマーベッドから立ち上がり、こちらに歩いてくる。
なんてチョロさだ。さすがに心配になってくる。
「先に言っとくけどよ。ずいぶん前に一度習っただけだから、正しいやり方って保証はねーぞ。ちゃんと覚えたいならそれなりのとこ行けよ」
「分かってる分かってる」
そもそも、ナガレをからかうのが主目的だ。
間違ってるなら、俺が後で正しく教える。
「で、誰が救護対象の役やんだよ」
「そりゃーミレくんでしょ。ほかの人はやり方覚えるために見てないといけないし」
ラヴィの意図は分かっていたので、俺は即座に仰向けに横たわり目を閉じた。
「げぇ!」
露骨に嫌そうな声を出すナガレ。
渋面を作っているのが目に浮かぶ。
しかしもう引っ込みがつかないのだろう。
彼女が俺の横に屈みこむ気配がする。
それと三人の受講生が俺たちを取り囲む気配も。
「えーと、まず意識の確認からだ。大きな声で呼びかけて肩を叩く。んで、意識がないと分かったときは、口の前に耳を近づけて呼吸をしてるかどうか確認する。……おーい、ミレウス。起きてるかー?」
トントンと肩を叩かれる。
ここで返事をするわけにもいかないので無反応でいると、顔の上に何かが覆いかぶさるような気配があった。
呼吸を確認しているのだろうから、頑張って息を止める。
「息をしてない場合は心停止もしてるだろうから即座に心臓マッサージだ。胸のこの辺を真上から、強く早く押す」
胸の真ん中あたりにナガレの暖かい手が触れるのを感じる。
講習なので、ホントに押したりはしない。
「これを三十回くらいしたら、次は気道の確保だ。意識のない状態だと、舌で気道がふさがる危険性があるからな。頭を後ろに傾けて、顎を持ち上げて――」
説明しながらナガレはそのとおりに俺の頭を動かす。
ちょっと苦しい。
「で、最後は人工呼吸だ。救護対象の鼻をつまんで、口を大きく囲うようにして息を吹き込む。救護対象の胸が上がってくるくらいが目安だ。……息を吹き込んだら――」
「ちょいちょいちょい。ナガレちゃん。ナチュラルに手順をスルーしないで」
ラヴィの声だ。
ちらっと薄目を開けて見てみると、ナガレがラヴィのことをじとっと睨んでいた。
「その息を吹き込むところも、お手本見せてくれないと」
「あん? だからこうだよ。鼻をつまんで、口を覆うようにして……」
鼻をつままれる。
再び、顔の上に何かが覆いかぶさるような気配。
「それからそれから?」
「え? だから、こう口にだな」
気配が近づく。俺の顔の上に影ができるのが分かる。
これにはさすがにドキドキした。
「ほらほら、そこで、チュッと」
「できるかぁ!!」
ナガレの絶叫。
立ち上がり、その場を離れる彼女の気配。
「恥ずいんだよ!! バーカバーカ!!」
子供のような罵声が届く。
まぁそうだろうなと、瞼を開けて上半身を起こす。
ラヴィも俺もナガレがこう反応するのは分かった上でからかっているし、シエナもリクサも分かっているから止めないのだ。
水際まで退避した彼女に頭を下げる。
「いや、ありがとうナガレ。分かりやすかったよ」
「お、おう。そうだろそうだろ」
「もし俺が溺れたら、本当にやってくれよな」
「ま、ままま任せとけよ!」
ドンと胸を叩くが、顔は耳まで真っ赤だった。
それを誤魔化すためか、あるいは冷やすためか、ナガレはラッシュガードを脱ぎ捨てると滝つぼへと飛び込んだ。
そのまま、きれいなフォームで奥の方まで泳いでいく。
……水泳で勝負を挑めばいいのにと、思わなくもない。
溺水事故の応急処置の講習は、俺が講師を引き継ぎ、無事に終わった。
その間に体力が回復したらしい。
リクサとシエナが俺の元へとやってくる。
「ミレウス様。もう一度、水泳のご指導をお願いいたします!」
「お、お願いします、主さま!」
やる気があるのはいいことだ。
泳げるようにはならないかもしれないけど、ここでの経験が無駄になることはないだろう。
今日は最後まで付き合ってやろうと、俺は心に決めた。