第六十二話 村人に挨拶したのが間違いだった
深い、オークの森の中。
積もり始めた落ち葉の上に、点々と血痕が続いている。
俺はそれを懸命に辿っていた。
血の量はさほど多くはない。ともすれば見落としかねない程度。
まだ乾ききっていないため、血の主はそれほど遠くへは行っていないはずだった。
しかしどういうわけか体が思うように前へ進まず、追いつけない。
何か違和感がある。
まるで自分の物ではない肉体を動かしてるかのような。
そんな奇妙な感覚。
だが焦燥を覚えながらも足を動かしていると、やがて目的地にたどり着けた。
一際大きなオークの樹。
血痕は、その根本に空いた洞へと続いている。
呼吸を止める。
ゆっくりと。
驚かせないよう、足音を忍ばせて、その洞へと近づく。
そしてそこに、俺は見つけた。
視界がセピア色に変わり、暗転する。
そこでようやく俺は違和感の正体に気が付いた。
歩幅が、普段よりずっと狭かったのだ。
いや、体全体が小さかった。
だから思ったように進めなかったのだ。
違和感は他にもあった。
今は夏の盛りのはずだ。
まだオークの葉が落ちるような季節ではない。
積もり始めた落ち葉の上に、血痕が続いているなんてことはありえない。
状況がおかしすぎる。
そう認識したとき、俺は前提からしておかしいことを悟った。
ああ、そうか。
これは夢だ。
☆
コッケコッコー! と。
やかましい雄鶏の鳴き声がして目が覚めた。
寝ぼけ眼をこすり、女中さんを呼ぶベルを取るため、王専用のベッドの脇に手を伸ばす。
しかし、もちろんそんなものはここにはないし、女中さんもいないし、そもそも寝てるのも王専用のベッドではない。
ここは王都でも、王城でも、王の寝室でもない。
ウィズランド島で最も田舎と呼ばれる西部地方の、さらに辺境にあるオークネル村、その外れの小さな宿屋『ブランズ・イン』の、そのまた隅にある、俺の自室だ。
両手を伸ばせば左右の壁に届くくらいの小さな部屋であり、身を横たえているのも義母さんからのお下がりである格安のオンボロベッド。
聖剣を抜いて王になり、ダメ人間ばかりの円卓の騎士を従えて、決戦級天聖機械やら魔神将やらと死闘を繰り広げる夢を見ていた気がする。
ああ、よかった、夢で。
と、現実逃避してみるが、もちろん、それが夢ではないことは分かっている。
部屋の隅に目をやれば、選定の聖剣エンドッドが立てかけてある。
あれが現実のものとしてある以上、ここ数か月の出来事も現実に起こったことだと認めるしかない。
まぁそもそも別に夢であってほしいと本気で思うほど、ここ数か月のことが嫌だったわけじゃないけど。
「ふう……」
上半身を起こし、息を吐いて大きく伸びをする。
寝起きは、たまにこうして一人でバカみたいな思考をすることがあった。
しかし実際のところ、今朝はもっと別の、なんだか懐かしい夢を見た気がする。
どんなんだったかな。
「あ」
思い出した。
部屋の隅に放置してあった金属製の小箱――元はお中元か何かでもらったクッキーの箱――を手に取る。
それは子供の頃にお気に入りのおもちゃやなんかを入れていた宝箱だった。
その中から、ややいびつな形をした小さな白い棒を取り出し、ぽつりと漏らす。
「……すっかり忘れてたな」
夢に見たのは、昨日、昔話をしたからだろうか。
あれは確か、ここに引き取られてすぐのことだったと思う。
☆
宿屋の息子の朝は早い。
寝間着から着替えて顔を洗い、歯を磨くと、先ほど俺を起こしやがった雄鶏どものいるダン爺さんの養鶏小屋へと向かう。
別に安眠を妨害されたからというわけではないが、その雄鶏を一匹買うためだ。
義母さんも昨日言っていたが、ブランズ・インの食糧庫は底を突きかけており、たいしたものは作れなくなっている。
今日は匿名希望もつけていないのでダン爺さんには大層驚かれた。
そりゃ国王になったはずのやつがいきなり鶏を買いにきたら驚くに決まっているけれど。
色々説明するのも面倒だったので、詳しい事情は後で話すからと言って鶏をもらい、ついでに一つ頼み事をしてから、小屋を出てきた。
他にもミティさんのパン屋や、畑持ちのヘイガーさんちなど何軒かに寄って食材を調達したが、そのたびに同じように驚かれたので、同じように適当に誤魔化して去ってきた。
宿へ戻ると、食堂で我が義母セーラが、眠たげな眼をして朝刊を読んでいた。
昨日と違い、息子が帰ってきても、ちらっとも目を向けてくれない。
しかし声はかけてくれる。
「おはよう、ミレウス」
「おはよう、義母さん」
朝の挨拶を交わすのも久しぶりだ。
コーヒーを淹れて持っていってやると、義母さんはほんの少しだけ微笑んで、それを受け取った。
食堂でくつろぐ同居人の気配を感じながら、キッチンで手早く朝ごはんの仕込みをする。
ずっと昔から繰り返してきた朝の日課だ。
当番が逆の時は、立場も逆だけど。
この後は宿中の掃除をしにいくのだが、その前に、はたと気が付いた。
ブランズ・インは俺の自室と母さんの自室、それと客室の一人部屋が二つと、二人部屋が二つ、四人部屋が一つという宿屋にしては小規模な間取りだ。
土地は有り余っているので、いくらでも増築はできるのだが、客室が満室になったことは俺が引き取られて以来一度もなく、そんなことをする意味も金もなかった。
――というのは、俺が王になる前までの状況である。
今は金ならある。
食堂の方に顔だけ出して尋ねる。
「義母さん、仕送りしたからリフォームでもしてくれって手紙に書いたはずだけど、ちゃんと口座確認した?」
「したけど。あんな大金、使えるわけないでしょう」
まぁそんなことだろうとは思っていた。
ものぐさで、息子使いも荒いこの義母だが、ラヴィのように金に執着があるわけではないし、突如湧いてきた大金をほいほいと使えるような人でもない。
けれど金はあるに越したことはないだろう。
しばらくは口座に寝かせておいてもらおう。
俺の部屋、義母さんの部屋、そして空きの客室と、順番に窓を開けて空気を通し、天気もいいので寝具を干していく。
続いて、ヂャギーが宿泊した一人部屋をノックをしてみたが、反応がない。
まだ寝ているのかと思い、声を掛けてからそっとドアを開けたが、部屋の中に彼の姿はなかった。
その音で気が付いたらしい。
隣の部屋の扉が開き、寝間着姿のシエナがのそのそと出てくる。
「あ、おはようございます……主さま」
「おはようございます、シエナさん。昨日はよく眠れましたか」
骨の髄にまで染みついた習性で反射的に挨拶をする。
シエナは、ぞぞぞっと全身を震わせた。
頭頂部についた獣耳と、腰と尻の間あたりから生えた尻尾が、ぞわぞわと波打っている。
「な、なんで敬語なんですか! おかしくないですか!」
「そりゃあ、お客さんですので」
そう答えてはみたものの。
「……いや、やっぱ変だな。宿泊料払ってるの俺だし」
「そ、そうですよぉ!」
シエナは泣きそうな顔で何度も頷く。
そんなに気持ち悪かったか。
普段通りにしただけなんだけど。
と、こっそり傷ついていると、部屋に姿のなかったあのバケツヘルムの男が戻ってきた。
もう慣れたからいいけれど、息を切らしてこのサイズの男がドタドタやってくるというのはなかなか恐ろしい光景だ。
「おはよう、ヂャギー。どこ行ってたの」
「日課の早朝ランニングだよ! 村の回りをぐるっと何周かしてきたよ!」
そういや王都でも毎朝、街の回りを走っていると話していたな。
しかしどう見ても不審者だ。
村人たちに目撃されてなければいいけど。
「……金ダライにお湯用意するから、汗拭きなよ」
「ありがと、みーくん!」
「それと洗濯するから、かごに洗うもの出しといてくれ。ああ、これはシエナもね」
と、彼女の方に目を移すと、シエナは再び身を震わせて、明確な拒絶の意志を持って首を左右に振ってきた。
「だ、ダメです! 洗濯くらい自分でします!」
その顔には畏れ多さより、羞恥心の方が濃く出ていた。
ああ、下着を俺に洗われるのが嫌なのか。
この宿には女性客もそこそこ来るし、個人的にはどうとも思わないのだけど。
「洗濯機で洗うだけだよ。それにシエナだって南港湾都市のホテルじゃ普通に従業員に洗ってもらってたでしょ。同じだよ、同じ」
「従業員さんと主さまは全然違います!」
「……リクサの下着も洗ったんだけどな、俺は」
あ、いや、正確には洗ってないな。
寸前で止められたんだった。
あの人の家に行ったときのことだけど。
シエナは俺の発言を聞いて、顎が外れそうなくらい口を開いて硬直していた。
どういう感情でそうなったのかは定かではないが、しばらくして再度動き始めたシエナは、断固とした口調で提案してきた。
「あ、あの、やっぱりわたしが洗濯します。わたしの分だけじゃなく、みんなの分を。宿泊費を出していただいていますし、それくらいやらせてください」
「あー、そう? じゃあ任せようかな」
俺の護衛という役割があるにせよ、彼らも一応休暇中だ。
申し訳ない気がしなくもないが、それでシエナが納得するならいいだろう。
やはりというべきか、ヂャギーも胸をどんと叩いて申し出てきた。
「オイラも何か手伝うよ! 力仕事なら任せて!」
「そんじゃ薪割りでもやってもらおうかな」
これで宿屋の息子の仕事も、ずいぶん楽になった。
時間が空いた分、朝飯は豪華にしてやろうと思う。
☆
ということで、いつもより少しだけ手間のかかった朝食を済ませた後。
俺はシエナとヂャギーを連れて、村の広場へと向かった。
義母さんも一応誘いはしたのだが、めんどいの一言で断られてしまった。
村の広場は昨日も通ったが、無人聖堂などの重要施設が集まったあたりにほんの少し開けた場所があるだけで、特に何があるわけでもない。
しかし今は多くの村人が集まっており、ちょっとした騒ぎになっていた。
養鶏小屋のダン爺さんに頼んで、この時間に集まってくれるよう、みんなに伝えてもらっていたのだ。
俺たちがやってくるのを目に止めて、村人たちから次々に声が上がる。
「おお、ミレウスだ!」
「ミレウスくん、おかえり!」
「あ、例の鉄兜の男もいるぞ!?」
「さっき村の外、走ってるの見かけたけど、ミレウスの従者だったのか……?」
「ああ、よかった! 私、十字宿場の治安維持隊に通報するところだったのよ!」
なんだか帰郷した王様より、目立ってるやつがいる気がする。
獣耳姿のシエナも普通だったら目立つ方なのだが、完全にかすんでしまっていた。
もっともこのウィズランド島は魔族に対する偏見や差別は薄い方だし、特に人狼はこの辺にも多いから、そのあたりも関係してるのだろうけど。
「待っておったぞ、ミレウス」
そう声を掛けてきたのは、杖をついた今にも倒れそうな、よぼよぼの老人。
我がオークネルのレオナルド村長である。
彼に促され、広場の中央に木箱を集めて急造されたお立ち台のような物の上に立たされる。
村人みんなの視線が俺に集まり、そして一斉に歓声が上がる。
王都で聖剣抜いたときもこんな感じだったけど、人数が少なすぎるせいか、あまり声は揃わない。
「ミーレーウス! ミーレーウス!」
「ミレウス不死王、ご即位おめでとう!」
「いやぁ、立派になったなぁ!」
……なんだか聞き逃せない単語があった気がする。
歓声があたりに響く中、お立ち台の後ろに控えたシエナに、そっと耳打ちする。
「不死王って、もしかして俺が一回死んで、蘇生された件が漏れてるのか?」
「い、いえ、たぶん、そういうわけではないと思いますけど……事情を知ってる後援者の人たちがそう呼んでいるのが、国中に伝播したみたいで」
「そうなんだ……まぁいいけど」
微妙にダサい二つ名のような気がするが、焼豚王よりかはマシか。
これも予期していたことだが、演説をすることになった。
もう慣れたものではあるけれど、ここにいるのは全員顔見知り。
いつもより緩くて大丈夫だろう。
「えー、お久しぶりです。宿屋のミレウスです。たぶんもう皆さん聞いてると思いますが、王都でうっかり聖剣を抜いてしまったので、この国の王になってしまいました。この度は二週間ほどの休暇を取ることができましたので、こうして帰郷した次第であります。できれば静かに過ごしたいと思っているので、俺が帰ってきた件は村の外に漏らさないようにしていただきたいのですが……」
「任せろ!」
「大丈夫、誰にも言わないわー!」
俺のことを小さい頃から知っている人たちだからだろうか。
村人たちは、あまりへりくだってはこない。
だが、これはこれでいいのだろう。
俺が過ごしたかったのは、王になる前と何も変わらない、この村での二週間だ。
「ところで、だけど……」
言いながら、村を見渡す。
昨日、帰ってきたとき何の変化も見つけられなかったので、気になっていたのだけど。
「このオークネルに、臨時の補助金を出すよう命じておいたんだけど、受け取ってない?」
「おお、もらった! もらったぞ!」
「ありがとなー、ミレウス!」
再び大きな歓声が上がる。
が、話にはならなそうだったので、レオナルド村長に詳細を尋ねた。
「あの補助金の使い道はまだ相談中じゃ。色々案は出ておるんじゃがこれといったのはなくてのう」
ド田舎で、貧しく、不便ではあるけども、大きな不満があるというわけでもない。
それがこのオークネルの村の生活というやつだ。
そりゃ大金をもらっても義母さんと同じように持て余すか。
レオナルド村長は杖でお立ち台のあたりを指し、付け足してくる。
「ミレウス。おぬしの銅像をこの広場に建てるというのが一応、最有力じゃが」
「それだけは絶対にやめてくれませんかね……」
そんなものができたら、二度とこの村に戻ってきたくなくなる。
ミレウス銅像計画を阻止するためというわけではないが、村人たちに提案してみる。
「例えば、ほら。昨日修理してるのが見えたけど水車小屋がボロくなってるでしょ? いい機会だし、あれ、完全に新しいのにしちゃうとかさ」
おお!
それはいい!
村人たちは揃って賛同してくる。
「それと、ガウィス川にかかってる西の橋もそろそろ架け替えてもいいんじゃないかな。せっかくだし木造から石に変えるとか」
いいな!
あそこ馬車で通るとき怖かったもんな!
これも好感触である。
「あとは……そうね。レナ先生だけじゃ大変だし、初等学校に新しい先生呼ぶとか。それと、ため池を一度水抜いて清掃するとか。ああ、十字宿場との間に乗合馬車の定期便を作ってもらうのもいいかもね。中等学校の通学時間に合わせて行き来するようにしたら、便利なんじゃないかな」
素晴らしい!
さすが王様! よく考えてる!
広場には、やんややんやと喝采があふれる。
そして村人たちは今度は声を揃えて、俺の名を連呼し始めた。
「ミーレーウス! ミーレーウス!」
顔が耳まで真っ赤になっているのを自覚する。
王都の数えきれない群衆の声よりも、三百にも満たないこの村の人たちの声の方が、遥かに俺を気恥ずかしい気持ちにさせた。
「楽しい村だね!」
ヂャギーが他人事のように言ってくる。
俺はそれに苦笑いで答えるしかなかった。
いや、いつもは長閑な、ごく普通の村なんだけどね……。